それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

疑うのは,信じたいから。


ヒカリエから駅の向こう側に向かおうと,ビッカメ前の交差点を渡っている途中,なぜか分からないけど振り返ったら,一度だけ見たことのある後ろ姿があった。
その人がお茶の紙袋を持っているのを見つつ,信号を渡り切らずに引き返す。この間1秒。腕を掴むとお互い一瞬の間があり,私が名乗るよりも先にこちらの手を掴まれたので,今度は私が驚く番だった。


彼は一緒に仕事を進めている人たちと歩いていて,私のフルネームを伝えるとその方々も驚いていた。彼が新しい仕事相手の候補として私の名前を出した時に,彼と私のキャラが被るからと,その経営側の方々から反対があったらしい。
そこに待ち合わせてもないのに私本人が現れ,キャラも相殺し合わなさそうだから,この2人でいけるのではないかという話に。

このタイミングのいい青年は,前回の記事に出てきた,すごいタイミングで初めましてとメッセージを送ってきた茶人だ。彼か私,もしくは私たちの両方が奇跡体質(奇跡を起こしやすい体質)なのかもしれない。



翌日,その日本茶品評会の結果発表かつ試飲会があって,会場に入るや否や1年ぶりに見た顔がいた。2日連続,渋谷で茶人の腕を掴んでいた。
私を含めみんな歳が近い茶人だけど,私たちの相違点だなと思ったのは,「頭で考えるタイプの人」かどうかということだ。

例えば上述の「仕事」の話も,突っ込もうと思えばいくらでも胡散臭く,数時間話しただけの私をそのプロジェクトに誘った相手だけでなく,「全然大丈夫ですよ」と返事した私も頭がおかしいかもしれない。
「頭で考えないタイプの人」も,感覚的に胡散臭さを感知するとは思うけど。怪しさの理由を探してやめようと思う人は「頭で考えるタイプ」ということになる。

でも,何回も話してきた人なら大丈夫かといえばそうでもない。人はある程度なら取り繕うこともできるからだ。信用していた人が信用に足らなかったことに,後から気付くことだってある。
ある人が信用できるかなんて,すぐ分からなければ逆に,その後何年関わっても不明なままだと思う。うまくいくと考えたことでもうまくいかないように,頭で長い時間考えたところで,分からないものはあるのだ。

この人は大丈夫だと思える根拠は,時間が連れてくるものではない。

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今年ずっと思っていたのは,「疑うのは信じたいから」だということ。

信じたくない相手なら,疑うまでもなく,今この場で信じなければいい。つまり疑っている間とは,信じるための根拠を探している時間だ。

信じるという結論に持っていく意思がなければ,疑ったところで何のゴールにも辿り着かないし,疑ってた時間が無駄になった気分になる。ああもう信じたくないなと思えば,私は疑うことも話し合うことも終える。そのどちらも,最終的なゴールは信じることだと思うから。

信じられるか信じられないかではなく,どの人を,どの道を信じていたいか,なのだと思う。

 

だから今後も,あのとき渋谷の交差点で引き返していなければ,と思うことに意味はないのだろう。
あそこで腕を掴むまでの1秒間に,逡巡する余地はなかった。

 

私が黒歴史と呼んでいるものは,確かに全て「やらなくてもよかった」こと。そしてそこから年月が経つと,「やらなければよかった」とも思わなくなる。

今は今で,やりたいことをしているからだ。

そしてそれが「やりたいこと」ではなくなったとき,容赦無く「やらなくてもよかった」と思うだろう。けどそれは,後悔を含んでなどいない。何かをやりたくなくなったときには,新たなやりたいことを見つけてるだろうから。


これは「頭で考えないタイプの人」の考え方だと思う。
この先何かが起こったときは,渋谷でのあの1秒を後悔するより,その時はその時で生きていくしかないだけ。
そして「その時はその時で生きていくしかないだけ」なのは,「頭で考えるタイプの人」も同じだと思っている。