「かっこいいと思えないから,離れて歩きます。」
友人が急にかけてきた眼鏡がどうも私の美的感覚にそぐわず,「その眼鏡,かけててもいいですけど離れて歩きますね」と伝えた。すぐに眼鏡を外してくれたが,その日友人と別れた後,その眼鏡がなくなってしまったらしい。
友人は「もう出てこないと思う…」と,あのダサ眼鏡を嘆いている。確かに私が外させたからかもしれないが,やりきれなさの矛先はなぜか私に向き,「矢島さんが駄目って言ったものはこの世から消える」「魔女なの?!」と言われた。(いいえ茶人です)
この世から消えたとすれば,友人のダサ眼鏡と,かつての交際相手ぐらいだ。正確に言うと消えたのかどうかも知らないが,私の知覚できる範囲,すなわち私の世界からは消えた。
2018/01/17 銀座甘楽さんで会計を済ませてる時に,目が合った犬。再度会計した。職場で割ると,中にあんこが。
— 矢島 愛子 / Teaist 🍵 10/19(土)茶会 (@amnjrn) 2018年1月17日
去年から話のあった件でメールが色々と一気に届いた。どれだけ過去を捨て置いてきても,続くものは現在も残ってるし消えるものは消える,という流れだけが続いている。 pic.twitter.com/yeSFAaP0SN
私は魔女ではないが,意識したものが(良いものも悪いものも)現実になるスピードが最近早まっている。具体的には書かないが,まさかこれがそう働くかと思うようなものによって,自ら完全消滅してくれたものもある。ダサいと思った眼鏡ぐらい,今なら消してしまいそうだ。
浮世離れしたことを話しているつもりはなく,全て現実で起こったことだから,私の実感としては地に足がついているのだ。 こういうスピリチュアルな話が無理じゃない人の前では,つい悪い冗談を言ってしまいたくなる。
「ほら,昔『夢かなえる』ゆうてベストセラーになったガネーシャって象,ようあんみつ食うとるやろ?*1 ワシも毎日和菓子食うてて,キャラかぶってんねん。
せやから,言ってへんかったけどワシ,ほんまは神様やねん。」
ダサいと思ったものをこの世から消す神,なんてあり得るだろうか。
私にはかっこいいと思えない眼鏡を気に入ったから,友人は買った。「私自身は」その眼鏡をかける必要がなく,褒める必要も,それをかっこいいと思う必要もない。この世から消す必要もないということだ。
いくら私の美的感覚にそぐわなかろうと,この世から消えることはない。しかし一瞬だけ目の前にあって,今目の前にないものが多々あるのは事実らしい。
消えた理由として,私が冒頭でダサ眼鏡に対して取った態度は,きっと私の合理性であり,行動の本質。
「あなたの生き方をかっこいいと思えないから,離れて歩きます。」
ただこの本質に従って,私本人や身の回りが,引っ切りなしに変化しているだけなのだ。
私から見たら耐えられないような生き方も,その生きている当人にとっては数々の合理的な選択の結果だ。そういう人から見た私の生き方は,その人の論理に全然叶っておらず,不合理の塊でしかないだろう。
「他者の合理性」と「自己の不合理性」については上の記事で詳しく書きました。
つまり馬鹿にされたから馬鹿なのではなく,その馬鹿にしてきた人と同じ尺度も持っていなければ,同じ土俵にも立っていないだけ。
かっこよさもダサさも,分からない人がかっこ悪いのではなく,同じ美的感覚を共有していないだけなのだと思う。そして同じ尺度を共有できない限りは,今後もかっこいいと思えることはない。
私が離れて歩くことに決めた人達だって,私にはかっこいいと思えなかったその生き方を,かっこよくて合理的だと思いながら続けていくのだろう。きっとそれは,かっこよさと合理性の尺度が違うだけだったのだ。
私は私の基準と合理性に従って,この人生を続けていく。尺度の違う誰かの世界から(お互い)どんどん消えていくだろうけど,それは私の人生がかっこ悪いことを意味しない。
人生のかっこよさが理解されずとも,私は消えない。
自分の人生が実際にかっこいいかなんて分からない。けど他人がこういう生き方をしてたら,「あ〜先を越された,羨ましいな」と思えるような生き方を,今している途中だと思っている。
私は魔女でもガネーシャでもない,ただの茶人だけど,そう思えている。
そして例の“消してしまった”眼鏡は,少し経ってから無事に見つかり,友人の元に帰ってきた。
この世から消えてなど,いなかった。