「金にならない」と言わせない。
3月下旬から5月半ばまで,点てたお茶の写真をSNSに(毎日)アップするのをやめていた。これは,お茶を辞めることと実は全く同義ではない。更新を辞めるタイミングはずっと考えていたけど,決心がつくのは突然のこと。
実はその前から,お茶碗を貸すので使ってくださいって言ってくれてた作家さんがいた。お茶の更新が減ったらもう連絡してこないかな〜と思ってたら,きちんと連絡をくださった。
インスタ上の人に自分の作品を配るなんて,茶碗界のダニエル・ウェリントン…!と思ったし,ご本人もそれを意識してたけど。本業の合間の土日に頑張って,1ヶ月に1個作れるか作れないかのものを,人に無償で貸し出せるのはやはりすごい。しかも本人は身銭を切ってひたすら広報活動とか貸出とかしてるわけで,何かしら利益が発生しても,全て師匠に渡していた。
冒頭の記事の中で,一銭も発生させない私のお茶の無意味さを滔々と語ったけど,それは0円だから無意味なんじゃない。1円でも発生した時点で,千円や一万円の仕事と比べて価値が低いだのなんだのって話になるだけだと分かってる。そんな議論に巻き込まれたら,自分のお茶が災難だ。
これで私か相手(作家さん)に利益がある…って話だったら,こんなに共鳴しなかった。そもそもこんな学生(当時)に貸し出しても購入に繋がらないんだから,その時点で欲のない人なのかなと思ったけど。無償であることの理解を共有していたというか,損得の話にならないのが心地よかった。
損得を抜きにすれば,感覚の近い人は勝手に出逢うものだと思った。そして感覚の近い人なんだから,頑張らなくても好印象でいられるっていう当たり前のことに気づく。おそらく私だけがそう思うのではなく,きっとお互いに。
毎日お茶を点ててる私しか見ていなかった人もいれば,私がお茶を辞めたと解釈する人だっていた。でも私がどんな状態であろうと,その状態のままで会える人はいる。
だから,自分の生き方が今変わっても,今後変わらなくても,この生き方でいいって思える世界は,絶対にどこかにある。自分が「この生き方でいい」と思えている限り。
お借りしたお茶碗を,早速苔の上で撮ってみた。富士山の石は,やはり自然の中が似合う。
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年4月17日
お湯を注いだ後にあれ?と思って耳に近づけると,水が滲み入る音がした。こういう静かな場所じゃないと聴こえないけど,チリチリぱちぱち声がする。貝殻を耳に当てる人のように,茶碗に耳を突っ込んだ。 pic.twitter.com/dOFOBe7hqy
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そんなお茶碗を,5月ごろに割ってしまった。私が買い取れる値段でもなく,ひたすら謝るしかない自分に対し,割れた茶碗を修理して送り返してくれた。頭が上がらないのである。
そのお茶碗の写真を私のインスタで見て,パリ在住の茶道の先生が茶碗を欲しいと仰った。もともと今月パリに行くことは決まっていたので,茶碗を見せに行こうということになる。作家さんに許可を取ると,新たに最新作も貸してくださり,茶碗の入った木箱2つと共にパリへ到着した。過去に割ってしまって前科のある私に追加で貸し出すなど,もはや暴挙だ。
お茶碗をお披露目したそのフランス人のお茶の先生は,即断即決で最新作を購入してくださった。急いで作家さんにご報告するとなぜか感謝され,「また夢に近づきました」と仰っていた。
2017/08/17 エッフェル塔近くの茶室にお邪魔して,お茶の先生に岩の茶碗をお披露目。このパリ滞在のために作家さんが最新作を貸してくださっていた。
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年8月19日
白い特徴的な茶入に合う茶碗を探していたところ,私のインスタで岩の茶碗を見たらしい。最新作のお茶碗が引き取られていった。 pic.twitter.com/z7xnJ2ha1u
私は機内持ち込みの手荷物で茶碗を運んだだけだけど,「金にならない」と言われ続けた私のお茶が,初めてわかりやすく(誰かの)お金になった瞬間だと思う。*1
何かが売れてお金が発生して,という稼ぎ方しかないように思っていた。けれど私がとても払えないような値段の物を無償で貸してくださってるだけで,無からお金が生まれてるようなものだ。「金にならない」という言葉が,全く的を射ていないほどに。
茶道教室も辞めたし,茶人の研究も一段落ついたなと,私がお茶から離れるタイミングに差し掛かる度に,誰かにこうして引き戻されているうちは,お茶と一緒にいる気がする。少なくとも「金にならない」と,的外れなことを言ってる人のせいで毎日のお茶を辞めることはないだろう。
お金があってもなくても,こういう人生を送るだろうなという人生を,今送ってるのだ。と思うことにしたい。
*1:私はマージンなどをもらっている訳ではないので,そういう直接的な意味ではなく。