選択と「よりよい未来」に相関はない
古くからの友人と,誰々が結婚したという話をしていた。その子は「あの人結婚したんだ!」と言った二言目には「あの人あまちゃん(私)と結婚したかったやろうね」と言った。
傍から見て結婚しそうに見えていたところで,私は「その人と結婚しなかったであろう理由」を50個ほど挙げられる。ある予想が現実にならなかった理由は,いくらでも挙げられる気がした。
何かちょっとした理由で「ただ現実にならなかった」のではなく,「現実にならないだけの理由がある」と気づいたのはそのときだ。その理由も1つ2つではない。
本人が自覚できる理由なんて,ほんの一部なのだ。
去年の春頃(修論提出前)に,起こったことは全て正しいという結論に辿り着いた。しかし同時に,自分の行動と選択で人生が決まっていると思っていた若かりし頃から,人生は行動と選択"以上"のものだと気づいたのもその頃。
上述の「本人が自覚できる理由」以上のものに,人生が左右されていると気づいたのだ。
例えば,家元のお茶も,流派も何もないお茶も,同時代的にこの世にある。どちらが正しいとかどちらが優れているとかもなく,それぞれに現代に残っているだけの理由がある。そこに,正しさや優劣に関係なく,現実に起こっているだけの理由があるという圧倒性を感じたのだ。
修論が何かの批判ではなく,「圧倒的肯定」という結論に至れたのは,上述の思考の流れがあったから。
しかし「起こったことは全て正しい」という主張すら,「起こったこと」と「起こっていないこと」を二項対立にしていた。起こったことの圧倒性を根拠に,「起こっていない」ことを否定していたのではないだろうか。
起こっていないこと「より」正しいと,現実と現実でないものを,これまで比較し続けてきた気がした。
起こっていないことにも,起こらなかっただけの理由があるのに。
それも,無下にできないほどたくさん。
今現実になっていないことは,私の努力が足りなかったとか,あのとき返事を間違えたからとか,そんな私側の変数だけで決まってはいない。
「自分側の変数が変わる→結果が変わる」という因果関係を意識しすぎていたと思う。
上記の矢印の向きを信じているから,人は目の前の選択肢を前に悩んで「より正しそうなほう」を選べば人生がよくなると思っている。
でも最近は,この矢印の向きが,それほど絶対的なものでもないことが分かってきた。
例えば,上で書いたようなことを,急に考えられるようになったことは,私にとっては結構な思考の変換だった。今までずっと,「正しさ」を求めて選択を悩んできたからだ。
では思考が急に変わったのは,目の前にいる人がとんでもなく素晴らしいからだろうか?
その人が気づきを与えてくれたとして,そんな素晴らしい人とは,ずっと一緒にいるべきだろうか?
おそらく違う。
「あなたが素晴らしい→気づきを得た」
「素晴らしい気づきを与えてくれた→その人といるべき」
この矢印のような因果関係は,本当はない。
急にこの世の因果関係について考えた私。あなたといる私,それぞれは事実だ。
でも,私が考えているほど,それぞれは繋がってはいないのだ。
出来事は,同時に起こったり順番に起こったりするのみで,私がここで「因果関係」や「矢印」と呼んでいるものは全て「タイミング(前後関係)」なのかもしれないなと思った。
そこを自覚せずに,選択肢自体が正しいかどうかで悩んできた。
例えるなら,「目の前のあなたがとんでもなく素晴らしいかどうか」などを気にしていたのではないかな,と思ったのだ。
でも目の前の人が素晴らしいかどうかって,その人自身というよりタイミング(時期)に左右されてたのかもなと。
↓ 長くなるので,他の例を出しながら別記事に分けました。
あと多分これも近いこと言ってる。