「能動的」な選択の正しさについて
自分で描いた夢が現実になった先にあるものこそ,「理想の人生」だと思いがちだ。今だって,能動的に選択できること(選択できる能力があること)が理想だと思っている。
それでも,「自分で選んでうまくいった」その先にあるものが正解だと思うのは,もうやめたい。
「自分の思い描いた通りには事が運ばなくても」その先にあるものは間違ってなどいない。
例えば,海外の大学院に合格したときに初めて,努力の結果として能動性(自発性)が認められたような気持ちになる。
ある程度長いこと付き合ってみて,なるほどその人と何年やってこれたから相性は良さそうだ,と判断するのは可能だ。
これらは,実際に起こった事象の答え合わせみたいなものだ。
しかし,不合格だったり別れたりしたときに,そこまでの選択が間違っていたかのように思うのは違う。
何かを犠牲にしたり,ある程度まとまった時間を費やしたり,それ自体が無念がましく腹立たしいことかもしれない。
でも間違っていた(失敗した)かどうかは,犠牲になったものや無駄になった時間で判断するものではない。
合格するかわからないけど勉強する。結婚できるだろうかと思いながら人を探す。
合格や結婚できたときにしか過去の行動が正しくないのなら,私の人生のほとんど全て,今のところうまくいっていない。
ただし「合格できたらいいな」「この人とうまくやっていけるといいな」と思うこと,その思いに沿った生き方をすることが能動性だと思う。
そしてその思いに沿っているときに起こったことなら,かなりの確率で正しいと思うことができるはず。
以下,読後感が変わってしまいそうで憚られる,とても個人的なこと。
私がいう「能動性」は,老子の「自発性」といった言葉に似ているが,全然違うような気もしている。老子のいう自発性とは,欲望の解放ではない。例えば片思いをして突っ走るような衝動は,自発性から最も遠いはずだ。
「そんな突っ走るような片思いは10年前が最後」「もう今後もない」とブツブツ漏らす私に,「じゃあプロポーズは愛子さん(私)からでいいよ。そんなに能動性が大事って言うなら」と言われたことがあった。
レトリック的に完璧だ,と思った。仮に私がプロポーズすることがあっても悪からず思っていること(=受け入れそうであること)や,別に私がずっと何も言わなかったら向こうからプロポーズしてきそうなことを,同時に匂わせている。
(修辞的技法にばかり感動してしまい,相手の発言には特にコメントしなかったが。しろよ。)
好きになるに値する相手が現れてから,能動的になれるのだと思っていた。しかしそれこそ,自分の能動性を他人に依拠していたなと思ったのだ。
しかし「もう今後もない」などと言ってる人間には,能動的になる契機(好きになるに値する相手など)も訪れないのだろう。
ブツブツ言ってる割に契機は与えられる人生なので,将来を擦り合わせることから能動性を発揮していきたい。
結果的に擦り合わせがうまくいくか以前に,擦り合わせようと思うことが大事なんだなと思ったので。