それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「憧れない、ちから。」を読みました。

 

憧れない、ちから。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

 

いぬじんさんのブログに感想を書くなんて恐れ多いのですが,そして慣れていなさすぎてどうリンクを貼ればいいのかも分かっていませんが,あまりに膝を打ちすぎたので思ったことを赴くままに書いてしまいます。いぬじんさんの意図と多いにずれてしまうかもしれないことを先にお詫びします。

 

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今まで,特に自分がくすぶっているとき,”そうなりたい人”がいないことが原因だろうかと思うことがあった。尊敬してる人は誰かよく訊かれるので,答えられるように準備してはいるものの全員男性で,特に女性に対してこの人みたいになりたいと思うことが無い。「憧れの人」がいないということは,到達したい地点が定まっていないことと同義なのではないかとも思っていた。

 

なんのコネもなく今住んでいる場所に来た最初の1〜2年間,年上の人に「よくしていただいた」。いぬじんさんの言葉を拝借すると「見知らぬ地平まで,一気に連れて行っ」てもらっていた。確かに全く予想もしてない,もともと憧れてもいなかった地平に連れて行ってもらえる。誰かに連れて行ってもらえないと行けないようなその場所自体は魅力的かもしれないけれど,そこにいることに違和感があるような場所だった。自分の能力が足りていなかったというのも理由だろうけど,憧れるほどには私と合う世界ではなかった。

もちろん,その年上の方々は最初のきっかけをくれたに過ぎない。その後も多くの人と出逢っていって,それがまた苦痛だったりしたのだけど,その都度判断してきたのは自分。ただ,今思うこととしては,どれだけ誰かを尊敬して誰かについて行こうとしても,そしてその試みがこれ以上なくうまくいったとしても,その連れて行ってくれそうな人にとってのゴールにしか辿り着かないということだ。

 

連れて行ってもらった地平の違和感に慣れることもできる。多分そういう努力もあたしには必要だった。でも,慣れることと同じぐらい,反対に,”違和感のある場所”にはあまり長く身を置かないことも大事。そして、違和感なんて本人にしか分からないんだから,自分を違和感のない方向へ連れて行ってくれるのは自分しかいない。

 

例えばあたしは,英語をなんとかしなくてはいけないけどどうにもならない状態が長く,誰か「憧れの人という便利な乗り物」が飛んでこないかなぁとずっと思ってきた気がする。でも,第二言語習得みたいなことにおいて,人に働きかけてスキルを習得させるなんてことは容易ではない。自動車の教習とは違う。英語が自由に使えるという望ましい地平にショートカットする方法は,もちろんハックとして人から学べばよくて,そういう意味では誰かに憧れておけばいいかもしれない。でもそれは”うまくいくかもしれない方法”を教えてもらうだけのものであって,うまくいかなかった場合はやはり直接的に連れていってもらえるものではない。誰もあたしを”英語が使える状態”になんてしてくれない。ハックを学び取ることと,誰かに違う場所に連れて行ってもらうことは,両方とも誰か他人に頼っているように見えて多分違う。

 

 

あたしもその違和感ばかりの世界から抜け出してすぐはどうしようも無かった。でも,辿り着きたい地平が定まって,人ではなくその地平に憧れて,第二言語習得を手伝ってくれそうな(だけで実際に身につく訳じゃない)人たちに頼るのをやめて離れて,来年無職にならないためには英語をするしかないんだという状況に追い込まれて初めて,本当に自分をどこかに連れて行くための努力に懸命になれるようになった。逆に,そのときにようやく,自分が行きたい地平に辿り着くことを確実な形で手助けしてくれる人たちの存在に気付けた。

変な話,自分を連れて行ってくれる「憧れの人」も,一定以上自分が行動を起こした後にしか現れないのかもしれないし,自分が行動を起こした後だからこそ「憧れの人」も自分を連れて行ってくれるのだと思う。

 

もし今後無職フラグが立ったら。その都度自分で次なる地点を定めて歩いていくべきなんだろう。結果的に誰かに助けてもらうことになっても,最初から誰か「便利な乗り物」に助けてもらおうと思っていると,また同じことを繰り返しそうなので。