それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

起こったことを,消そうとするな。

 

毎日点てるお茶と茶人の研究でお茶漬けになり,留学生しかいない同期の中で英語漬けだった院生生活はもうすぐ終わる。

本当はずっと,「これは本当はライフワークではない」「得意でもない分野でずっとやっていくなんて信じられない」と思っていた。院を卒業すれば両方から解放されるはずだった。しかし実際は,お茶から離れられていないし,出逢った人々に比例して英語の比重は増すばかりだった。

きっと自分がそれを望んでいるからだ。

 

苦手なことって2種類あって,いつまでも苦手で構わないものと,苦手でいたくないものがある。好きなことをすることは,後者に取り組むことを意味する場合もある。好きなこととは,苦労せずにできることばかりではなく,苦労を引き受けたとしてもしたいこと。

例えば,得意なことだけが好きかといえば,そうではない。「この人と過ごすと茶道の用語以外は全部英語だな…」とか思うよりも前にそれを受け入れているのなら,別に英語を忌み嫌ってなどいないのだと思う。それは得意だからなんかではなく,引き受けられる範囲の負担だし,負担とも思わないこともあるからだ。

そうしているうちに,英語でも言いたいことが言える割合が格段に増えて,今はあまりフラストレーションを感じない。変な話,これで今でもフラストレーションを抱えていたら,普通にお茶や英語から離れると思う。

本当に嫌なものからは結局離れる。不快じゃないものだけが手元に残る。だからか私は根無し草だけど。

そういう意味で,感情という自浄作用は信じている。おかげで最近は,正しいことしか起こっていないと最近は思えている。

 

一方で,手元にあるものに対して不安になる度に,「これは私のすべきことではない」と逃げようとしていた。この仕事やこの人に時間を割いてて大丈夫かなとか,どうしても思ってしまう。それがただの杞憂の場合もあれば,ごまかしきれない違和感の場合もある。後者であれば,その仕事や人からは離れた方がいい。その仕事に取り組んだことも,その人といたことも正しかったとしても,今「違和感を感じている自分」がいることも正しい,ということになるからだ。

 

道教室に全然いい思い出がないのに,お茶にこんなに時間使ってどうするんだ,とか。マトモな人みたいなことを理性が言う。実際には私が思っているのではなく,多分他人が言っていたことを反芻している。

お茶から離れれば,高校までの無趣味な自分に戻るだけ。でもそれは,また別の不安や恐怖に動かれてるだけなんじゃないのか,とか。余計なことも考える。

抱えている不安が,杞憂か違和感か,全く判断がつかなかった。起こったことは正しいとか言えてる今だって,きっと違和感だらけだ。

 

私のいう「正しさ」は「今この瞬間には正しい」ぐらいの意味だ。

例えばある外国人とは母語で話しているのと同じぐらい,むしろ日本人とよりも深く話せるなと思った場合,その瞬間はその人といることは間違ってない。仮に数年後とかに,日本人で同じぐらい議論できる人が見つかったとしたら,それも正しい。やっぱり母語の方が良かったんだねとか,英語使ってた期間は無駄だったねとか言ってくる鬱陶しい人はいないと思う。

 

ある物事が終わったとき,あの作業やあの人に時間を費やすんじゃなかったと,私はすぐ思ってしまう。でもそう思うときはだいたい,何か次の流れの中にいて,その新しい流れが正しいと思えているから,過去の流れが間違いに思えるのだ。逆に言えば,正しいことから次なる正しいことへと移り変わっているだけ。過去の判断が間違いに思えるのは,今は今の基準で正しいことを選択しているからだ。

だから,次に「正しいと思える」流れに接続されるまで,今いる流れはきっと正しいのだろう。

海外から来た茶人と一緒にいることを選べば,お茶漬けで英語漬けの期間が延長することも分かってる。先を案じたとして,代わりに今何をどうするというのか。今正しいと思えることを避けた先に,どんな種類の幸せが待ってるというのか。

 

今は今なりの正しさの中を生きていればいい。

少なくとも,私はお茶の人じゃないだなんて,もう思わない。