それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

自分に必要なメッセージは,たまに人の形をしている。


京都では天満宮の敷地内に泊まっていた。神社の住所を伝えてタクシーを呼ぶと宗教の話になって,ドライバーさんがお坊さんから伝え聞いた話を聞いた。

 

「色んな宗教があるけど,お坊さんたちの間では,どの宗教が正しいことやってるっていうのはみんな分かってるらしいんですわ。
だから私聞いたんです,なんで正しいと思ってる宗教をせんのですかって。
そしたら『もうここまで民衆騙してしもたら,もう後には引き下がれへんねん』って。」

 

神とか天といったものが何かを人間に伝えたいとき,誰かの口を借りることがあると言う人もいる。もしそれが本当なら,それはドライバーの口を通して,かなり明示的に言語化された。

心の中に急に言葉が降ってくる人もいるんだろうけど,外部の刺激からメッセージを受け取る人もいる。私は後者だ。だいたい脈絡がある(私本人にとっては)

 

京都に到着した次の日に出逢ったおばあさんは,外でお茶をしている私たちの周りを5分ほど彷徨いた後,敷地の管理者を呼んできた。私は「写真を撮ってます」と答え,管理者の人は「なんでそういう風(お茶とお菓子)にしてはるんですか」と訊いてきた。私の過去3年半のお茶写真を振り返っても,スムーズな答えは出ない。少なくともその人達が納得するような答えは無い。

すみませんすぐ片付けますと答えると,通報したおばあさんは「おいしそうなお茶点ててますのや,すーっごくおいしそうなの」と山にでも呼びかけるようなポーズで言い残し,私は「いえいえ」と,普通に褒められた時と同じ反応をした。その反応を受けておばあさんが去っていった後,管理者の人は私たちが帰るのを黙って見ていて,私もそれ以上は特に言わなかった。どちらかというと先に帰ったおばあさんの方が,私に異議がありそうだったから。

飲食禁止とは書いてない場所。もちろん写真も禁止されていない。何が禁止されたのだろう。何が「正しく」なかったのだろう。

人は,奥歯を噛み締めたままでは溜め息もつけない。この気分を京都で味わうのは,去年に引き続き3回目だ。

 


私は普段から,誰とでも,自分の点てるお茶がまずいかどうかも伝わらないような距離を保っている。見せているのは写真としての一枚のお茶だけ。別にそのおばあさんも私のお茶を飲んだ訳ではない。

だからか,味の話をされると気分が悪かった。写真や構図が下手と言われるより,よっぽど。

 

そのとき,京都に来る直前にお会いした,ある著名なお茶人さんの言葉が思い出された。私が一人に文句を言われている間に,遥かに大勢の目にお茶を晒してきた人の言葉。


 

「(茶道界を)僕ら(若いお茶人さんたち)が変えるのか,次の人が現れるのか。新しい風が吹くといいですけどね」と言っていた彼は,「奇抜な茶会をしたりすると,皆さん一枚の写真しか見ない訳で,それで判断される。でもこれもお茶なんですって,言えたなって,言えばよかったなって今は思いますね」と話した。

 

 

研究対象のお茶人さんから,嫌味が母語らしきおばあさん,そしてタクシードライバーさんという順番に話を聞いたことになる。実際には,東京に帰ってくるときから京都に行く時へと,時系列を遡るように話が繋がる。

バラバラの状況で出逢った彼らの口を通して,言語化されたバラバラの内容。
確かに,あるメッセージが届けられたように感じた。ここでいうメッセージは,誰かの言葉そのものというより,受け手の解釈のことだ。

 

うまく言葉にならないから,代わりに〈お茶〉をしているようなところもあるけれど。

私も,メッセージを吐き出す口のように,私の中にあるものを言語化していけたら。そして,それが誰かにとって,メッセージになりえるものだといいなと,今は思う。