それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「お茶と同じぐらい」大事であるということ。

 

飲食店に茶器と茶菓子を持ち込んでお茶を点て始めるのは,かなり非常識である。だが,私はした。学部時代の先輩と会うことになっていて,お茶セット一式を持っていたのだ。
ご飯とお茶をいただいた後にお手洗いに行っている間に,先輩が会計を済ませていた。女性の店員さん2人が「お茶の研究ってどういうことやるんですか?」と話しかけてくる。何か言ったんですかwと先輩を問い詰めると,「茶人ってどんどん売り出していかなきゃダメだよ」とか言ってた。

 

 

次の日,その先輩とまた別の先輩と彼女さんのおうちにお邪魔していて,私の「お湯いただいてもいいですか?」が始まる。お茶のある風景を撮っている間,先輩たちは各々好きなことをしていた。そしてお茶を撮ってる私も,当たり前のように好きなことをしている訳である。

「〇〇とお茶どっちが大事?」と訊かれれば,秒で「お茶」と返答するようになったここ数ヶ月。縁が切れた相手のことを話すときも,私はいつも「お茶より大事じゃなかった」みたいな言い方を,本当にする。「いや,(お茶と比較しなければ)人間の中では優先度かなり高かったんですけど」と定型句のように言っていた。そして今日のお茶を通して私が思ったことは,

「こんな私にも,お茶と同じぐらい大事な人たちがいる」ということだ。

 

 

 

呼吸するようにお茶をするとき,もしくは高揚感の中にあるとき,「いや,良いんですよ,私のお茶は,だから」と口を衝いて出る。そういう時の写真を見れば,幸せな人のお茶が写っている。自分のコンディションも,お茶を通して確認する。

私が自分のお茶を好きなとき,隣にいる人たちのことも好きだ。どちらが先か分からないけれど,どちらも好きだ。急にお茶を点て始めるって,なかなか誰の隣でもすることではない。身体が正直なのを感じる。最近は感覚が理性を追い抜いている。

*1

 

例えば「お茶と同じぐらい好き」と言われた場合に「おい俺はお茶に勝ってないのかよ」とか言ってくる人は,私が言う「お茶が好き」の意味を分かってないと思うし,心配しなくても私はそういう人のことは別に好きではないと思う。
「よっぽどお茶が好きなんですね」とか言われると閉口する自分がいるのは,私がお茶に向ける気持ちが,好きだ好きだと日常的に出る「好き」じゃないから。そんな意味の「好き」を抱ける存在が私にもいて,よかった。
これまで私の中に浮かんでは消えてきた「好き」という感情の,いかに瑣末なものか。「自分対お茶」の付き合いのように,「自分対人間」の付き合いもできるといいな。

 

2015年までは完全に荒みきって人間の心がどこかに行っていたのを感じたので,2016年の目標の一つに「Love someone」があった。

叶わないまま,次の年を迎えるかと思っていた。

 

 

本当はもっと前から,叶っていたのかもしれないが。

 

 

*1:最近はお茶っていう,すぐに社交的な気分になれるトリガーができて,自分の心が解放されているとき,どうしても誰かを信用したくなるし,そこに誰かがすぐに入り込んでくる。でもそれ以上に,もっと自分の感覚を信用すればいい。