それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「人の言葉」を聴くこと。

 

今年の始まりをまだはっきりと覚えている。昨年の大晦日に書いた上の記事に,桐谷ヨウさん(id:fahrenheitize)がブックマークしてくれたのが元旦だった。(そういえばブログタイトル変わってます)

 

そのブクマに対する私のコメント。まだファーさんって呼んでる。

 

夏頃,そのヨウさんに「関西行くならズイショさんにも声をかけてあげてくださいよ!」と言われ,何の脈絡もなくご連絡を差し上げたにも関わらず,ズイショさん(id:zuiji_zuisho)は会ってくださいました。もう一つ似た流れで,ズイショさんが「はせさんは」と仰っていて,そうじゃなくてもお会いしたかったのですが,はせおやさいさん(id:hase0831)にお会いできたのは,その後押しもあってのことでした。

ブログを細々続けていて良かったと感じる一年で,はてなブロガーの皆様,本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

 

同時に,あの人に会ったら?って言われたとき,無理して会わないのも一つの選択なのだろうけど。不可能でない限り,目上の方に「〜〜したら?/するといいよ」と言われたことは,全て本当にやってしまった下半期だった。従わない理由を考える必要はなかった。私がしたかったことは,研究対象だろうとなかろうと,一人でも多くの興味深い人に会うことだったので。

「この人の言うことなら正しそう」とか相手で判断するのではなく,自分が従いたいかどうかを考えていたから,判断が早かったのだ。逆に自分がそうしたくないなら,好きな人や尊敬する人に何か言われても,特段従わなくていいと思う。それでうまくいかなかったら,その相手のせいにしてしまう恐れもあるので。

でも上の例で言えば,誰に言われなくてもズイショさん会いたいじゃないですか。私どんだけ初期の頃から読んでると思ってるんですか!(3年前以上から) それを後押ししてくださる言葉を聞き入れることって,至極当然だと思うんですよ。

 

選びたい選択肢の話は上の記事でもしていた。

選択肢の選びようが無い状況も多い中で,最初から最後まで自分で選べるだなんてことは少なく,私も予想外の連続だけど。それでも自分で選んだと思えていなければ,何かを恨んで生きることになる。逆を言うと,自分裁量だと思えてる範囲内では,幸福度は高い。

 

人類学がそういう手法だからっていうのもあるけど,研究の方でも,お会いしたい若手のお茶人さんのところに,次から次へと伺っていた。

それはそれはもう,私に必要な1年だった。頭の中は「自分で選んだと思っている選択がもたらした現在」と「会ってきた方々の言葉」で溢れかえっている。

来年は,「自分の言葉」が散々増えることでしょう。

 

皆様も,よりよいお年をお迎えください。