花は盛りに。
遠くから赤色が見えて,あれって椿だったかなと思い近寄ると,それはサンザシだった。
今日の茶菓子は椿の上生菓子にしようと思っていて,生の椿を探しに,私は大学へ芝刈りに。そうでなくてもいつも,スティックタイプのハサミを持ち歩いているのはそのためだ。しかしハサミは必要がなかった。木の根元には,枝ごと折れたサンザシが落ちていた。
サンザシを拾い,椿はまあいいかと来た道とは別の道を歩くと,目に入ったのは白い椿である。茶花として使うのは蕾の状態の椿だけで,こんなにも開ききった,むしろ朽ちかけている椿など誰も見向きはしない。茶室の中だけでなく大学内でも,白から黄土色へと変わりつつある椿は,見向きなどされていなかった。
頭の中の吉田兼好が「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と話しかけてくる。そうですよね。「茶花として使えるかどうか」なんて,人間の勝手だ。蕾を愛でるのも,枯れた花を愛でるのも,どっちが偉い正しいなんてないと思うのだ。
利休の教えを書き写したとされる南方録から,「花によりてはふわふわといけたるもよけれど,本意は景気をのみ好む心いやなり」との一文。花の美しさを見せるのではなく,花を活けるその人の心構えを見せろ,とのこと。
枯れた花でも,どういう訳か,派手になる。
この茶はありや,なしや。
私は正解を示そうとしているのでもなく,ただ,問いを投げる。
遠州流が綺麗寂びなら,私は侘び派手の路線を開拓することにしましょうか。
2017/01/07 茶花には全然使えない,開ききって朽ちかけてる椿を拾ってきた。私のお茶では,あなた全然使えます。
— あまんじるな (@amnjrn) January 7, 2017
花はその後,花瓶へと。サンザシもなるべく枝を切らないように,たわわなままであるように。https://t.co/QBejaw9HVS pic.twitter.com/9a5vyf8KhX
問いの話はこちらでもしてました。