100%好きになるということ(お茶と写真編)
あるものを好きになって,その周りにあるものが好きになれないとき,どうやって対象を100%好きになるのだろう。
修論の研究主題に茶道を選んだのは,「なぜお茶をやっているのか答えられなかったから」だ。「好きだから」と答えられていたら,論文は生まれなかった。
上の記事で書いたような茶道教室での経験など,手放しで好きといえない理由があって,それでも茶道から離れない自分との葛藤から学士論文が始まり,修論に繋がった。
修士論文では,茶道界のどこが問題視され,「社会人茶人」がどのように対峙しているかを概観した。その作業はそのまま,筆者(私)が茶道のどの部分が好きで,どの部分が好きになれないかを明らかにした。*1
きっとあの論文の執筆中は,お茶を100%好きだと言えるようになるために必要な期間だった。
嫌いなところが無くなった訳ではない。嫌いな部分が明らかになり,それでも残った好きな部分が見えたのだ。
もちろん他人のすることだと,考えの近い人でも全肯定できないことがある。だからこそ自分でもお茶を点てて,「自分にとっては完全に納得のいく世界」は自分で創る必要があった。
つまり,論文の前後で世界はこれっぽっちも変わっていないが,自分の中で,100%好きだと言える世界を見つけた。
だからこれまでしてきた作業は,最初から100%の好きで始まっていたのではなく,好きな気持ちを100%にもっていくための過程だった。
重陽の節句といえば1-3枚目(2015-2017)のこのピンクの着せ綿ですが,毎年撮ってると4枚目みたいな菊の薯蕷饅頭を撮りたくなったのが今年でした。(そしてまず作風(?)の変遷が著しい。) pic.twitter.com/8AFgl3ewHo
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年9月10日
例えば毎日撮り続けて来たお茶だって,下手だった時期がとても長く(今も含む),恥ずかしくて好きと言えないほどだった。それでもうまく撮れない撮れないと言い続けて,ある日のお茶に,なんだか私っぽい色が出た,と思った。
2018/09/07 金沢の諸江屋さんの菊花せんべい。
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年9月7日
重陽の節句のための菊を探していたら,「こちらもキク科ですよ」と勧められたジニアが秋色だった。ワレモコウが妙にお茶に馴染む。
回復魔法のような名前の花をたくさん見て, 和菓子より花に囲まれていたい気分。 pic.twitter.com/hpFLBxtXpt
上手い下手は急激に上達したりせず,今も上手くなった訳ではないが,表現したいものが昔よりは撮れるようになってきた,気がしたのだ。
「あ,撮りたいものが撮りたい光と色に映っている」と思えたとき,初めて「自分のお茶の写真が好きだな」と思えるようになった。
写真とお茶は一般的に別物だが,写真技術の上達抜きに,自分のお茶を好きと言えることはなかったはず。「目指す写真表現」が「100%好きだと言える世界の創造」と切り離せていないからだ。
2018/09/18 技術の上手い下手,お金になるならないとかを置き去りにして,毎日積み重ねてきたお茶は,生きていてよかったと思える理由。この「お茶」のような存在を,今後見つけられるか分からない。
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年9月18日
今頃になってようやく,自分の点ててきたお茶と写真が,本当に好きだと言えるようになりました。 pic.twitter.com/k0XLvtcxXX
好きと言えるまでの道のりは平坦ではなかった。好きと言えるようになることは,私にとって闘いだ。
100%完成されきった何かを与えられて好きになれることなんてない。どんな対象にも見るべき部分があって,どうしようもない欠点もあって。
量で言ったら論文2つ分,好きな世界と好きと言えなかった世界の両方の肯定ができるようになり,写真や文章といった表現が徐々に追いついてきて。その上で初めて,今見えている「自分のお茶」という小さい世界は100%好きだ,と思えるようになった。
「山是山,お茶是お茶」
茶席でよく使われる禅語で「山是山水是水」というものがある。数ある解釈のうちの一つに触れると,悟る前は山は山,水は水にしか見えていないが,悟ると山が山に見えなくなり,水は水以上のものに見える。その悟りの段階も過ぎると,やはり山は山であり,水は水としてありのままに映る。しかし悟る前の山や水とは,全く異なる新鮮さや意味を持っている,というもの。*2
100%好きだと言えるようになった後は,むしろお茶への執着が薄れた気がする。好きと言えない時期の方が,お茶へのこだわりが強かった。なんだか今は,新作スイーツに並ぶ女子ぐらいのノリでお茶を好きな気がする(若さの差は考慮しない)。
毎日のお茶は引き続き,週末もお茶にまつわる活動に費やす生活は変わらない。これが健全な「好き」という状態なのもなんとなく分かる。
あぁ,人はこのくらいの状態を「好き」と呼んでいるらしい。
100%好きになれる世界の先に待っていたのは,「お茶是お茶」という,「やはりお茶はお茶である」という世界。
好きだと言えなかった頃にお茶と呼んでいたものと,今私が見ているものは違うだろう。それでも「悟る」前の状態に戻ったかのような,取り残された思いがある。
どうも憑き物が落ちてしまったようだ。
それと同時に,「やはりお茶はお茶である」と思えたここからが,また「闘い」になる予感もある。