消えない過去を恨まずに生きるということ。
「え,それ今?」と思う出来事が毎日頻発している。というよりは,何が今の自分に必要なのか,毎日明らかになり続けている。あるものが嫌だと分かれば,少なくとも次の瞬間からは,嫌なものと関わらないように生きることを目指すだろう。
そうやってこの瞬間瞬間に,大事なものとそうでないものを分けている。
例えば,なぜ家に向かうこの道を歩いているかと言うと,私がその場所に引っ越したからだ。最寄駅から会社まで一本だから。じゃあその会社を選んだのはなぜか。
なぜかその日は着物を着ていること,そこになぜかハイヒールを合わせていること*1。右手には,先日自分で焼いてきた茶碗をぶら下げていること。
下を向いて歩くも,前を向いて歩くも,目の前に見えているもの全てが答えだ。全てすべてが,自分の決断の結果だった。
好き好んで着物に合わせたヒール。足を振り上げれば,靴はすっ飛んでいって,身体の一部ではなくなるだろう。
向こうに見えるビルは? いま歩いているこの道は? 足を振り上げようと何をしようと,消えはしないし変わりもしない。
下した決断とその結果は,どうやら消えないのだ。蹴飛ばして足から離れたヒールのように,目の前から消せるものはいくつかあっても。
傷つかなかったかのように,何にも心を砕いてこなかったかのように,何も起こっていないかのように生きていくことは,もうできない。
同時に,何か判断を誤ったからといって,何も終わったり消えたりしない。むしろ,傷ついた自分なり,それでも生きていかなくてはいけない将来なりが残る。
私の中に,「人を嫌いになったままではいけない」といった,義務感の混ざった,良心とは別物の気持ちが浮かぶ。
それは,誰かを嫌いたくないという気持ちとは違う。義務感や罪悪感は,願望ではないからだ。
ただし,過去に失望した誰かと表向きは再び仲良くなれても,失望したり嫌いになったりした事実は消えない。受けた傷なんてもってのほか。
例えば蹴飛ばした靴が戻ってきたとして,元のように両足揃えて履けるだろうか? 履いていたいだろうか?
これから心を砕かなければいけないのは,いや「心を砕きたい」のは,あなた達ではない。*2
もし「嫌いになってはいけない相手」という存在があるなら,それは好きになれるかどうかで判断するべきだ。好きだという前提がない相手は,許せるか許せないかを考慮する時間がもったいない。*3
許せるか許せないかで天秤にかける相手は,好きかどうかで判断できる相手に勝てない。
人を恨まずに生きる方法は,その人を許すことだけではない。
誰かを許すのに使う労力や迷う時間を,いま好きな人たちと幸せでいるために遣うことも,方法の一つだと思う。
いま見ていたい世界はもう,あなた方が知ってるどの私が見ていた世界とも違う。別に本人たちには伝わらないだろうけど,私が時間を遣いたい事柄や人は,もう他にある。
びっくりするほど,さようなら。
正しいと思える決断をし続けてきた結果が今なら,過去を向いて言うべき言葉は一つ。
「あー(あの時は)楽しかった!」だろう。
その意味では,過去の一瞬一瞬にありがとうと言えそうだ。