それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「今」は「今」以外の何とも比較できない。


「1年前の自分はいつもダサい」と思っていた。一昨年より去年,去年より今年の方が幸せであり,それが「いいこと」だと考えていた。

 

1年前の自分を否定して突き放して,毎年別人かのように違うことに取り組んで。割と数ヶ月から数年のスパンで,引っ越しなどもあり人間関係も変わっていた。

どうも「今」と「過去」がいつでも断絶していることに,20代も半ばに差し掛かった後に気づく。*1

 

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例えば,40歳の分別で20代の転職を迎えられれば,キャリア選択に後悔を残すこともないはずだ。

30歳の分別で中学時代を過ごせれば,思春期特有の悩みなんて些細なことだろう。(この仮定もそれはそれで危ないが)

 

しかし実際は,その年齢ごとの分別で生きていくしかない。その時にした失敗も悩みも,後年にならなければ答え合わせできない。

悩まず後悔しないことが「幸せ」な状態なら,30歳や40歳になったときの自分がしそうな選択を今することが正解なのだろうか?

 

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今抱える不満足が解消される未来を「幸せになった」状態と呼ぶ。

今は今のままで幸せになることは不可能か?

 

ただし,過去よりいい「今」を知っているから,想い出に文句をつけられるのだ。

当時はダサくも惨めでも不幸でもなかったのではないか。なぜなら過去は過去で,「1年前の自分より幸せだ」と一瞬でも思っていたのだ。

過去を貶めることなく,「今」を評価することはできないのか?

 

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振り返れば,断絶したいほどの過去や不必要な失敗が腐る程あり,やっぱり要らないなと思う。
でもそれは振り返ったときにのみ思うこと。

 

これまでのように,この先過去を振り返ったとき,「今」のことを「要らない過去」と思うのが怖い。

 

一瞬先に幸せでいるために必死に生きてきた。でも別に,将来が今より幸せになったら,相対的に現在が不幸だったことになる訳ではないだろう。

この「今」を,「ダサい」「消したい」の一言で断絶したくない。

 

 

「もしかして1年前の方が幸せだったかもしれない」と思う時期もあったり,5年も経つと納得できていたり,幸も不幸も単純な議論ではない。

 

「今」は絶対に,「今」以外の何とも比較できない。

 

26歳なりの分別で,今いる世界で最大限幸せになって,状況が変わってもその時はその時で最大限幸せになるだけ。

30歳の自分が喜びそうな判断という視点も,時には必要かもしれなくても。

 

 

 

そんなことを前にも言っていました。 

 

*1:過去にしてきたことは全て,英語と現代茶道の研究を続けながらお茶をすることに繋がってるので,どれも同一人物の所業だったんだなとは思うけど。