それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

違うクラスタの人には嫉妬しなくていい。

 

賢い人には馬鹿にもなれる,とよく言うけれど

どんな賢い人も絶対にあたしにはなれない。

絶対,と言い切っていいほどの事実は人生を楽にした。

 

例えばあたしは松岡修造やさかなクンを尊敬していて(っていうとどんな人間を理想としてるかが自ずと分かるけど),彼らの人生を追体験できたら最高の人生かっていうと,あたしは彼らほどテニスも魚も好きじゃない。

そりゃウィンブルドンってすごいんだけど,あたしが思うその価値は松岡修造が思うそれの重さと比べられる訳が無い。同時に,自分は被災地に自宅の魚を寄贈することもできない。

それらを成し遂げてしまえる彼らは,国内外のお茶クラスタと繫がって茶人である喜びみたいなものを感じることも,茫漠な人生をお茶を通して眺めても,多分楽しくない(まず,しない)。

 

どんな人も,その人の住む世界の中ですごい。そのため,お茶クラスタの中で生きる人は,お魚クラスタの中で活躍する人に嫉妬する必要はない。

こんな風に主語を大きくして考えると,たいていのものに嫉妬せずに生きることができる。なんでもかんでも尊敬できることと同じくらい,不必要な嫉妬も劣等感も抱かないことも求められるだろう。

 

どの人もその人の住む世界の中で一生懸命に優れている。

その人の世界は自分の生存圏と重なっているだろうか?誰かが優れていることが,自分にどのように干渉しているだろうか?

 

誰かが優れていることと自分が優れていないことは,本人が思っているほど相関はない。この事実も,人生を楽にした。

 

 

もっと卑近な例を挙げると,あたしが希望の大学院に行けなかったところで,誰も困らないし,何も起きない。同時に,希望の大学院に行けたところで,自分以上に幸せになる人なんていない。

でも思う,その方面のプロほどテニスや魚が好きじゃないのにウィンブルドンや海洋大学の客員教授を目指すより,なんのプロでもない自分がお茶をきっかけに世界を広げていくほうが楽しい。

その結果,何かのプロになるのかもしれないし,その時はそのプロであることを否定しないだろう。

茶人であることは,誰かにとっては一銭の価値にもならない。ただ,茶人以外の道で優れている人は,その人がいかに自分より英語ができても文才があっても写真が上手でも,お茶に関してあたしなんぞ以上にもなれない。

 

 

優れてるとか劣ってるっていうのはある囲いの中の話だ。

テニスとか魚とかお茶っていう囲いをつくるから,その中で人と比べないといけなくなる。ただし囲いが無ければ,あらゆるタイプの優れた人と比べて劣等感を感じているかもしれない。

 

ある人が突出できるのは,囲いの中に惰性な人がたくさんいるからかもしれず,誰かとの共通点を見つけて仲良くなれるのも,囲いがあるからかもしれない。そして同じ囲いの中,地球のどこかに自分と似たり寄ったりの人がいたとしても,あたしにはなれないのだ。 

 

 

これは,誰かに対して劣等感や妬みを抱く場合の話。

自分の人生を周りとあまりにも切り離して考えるようになると,逆に身近な人とかを尊敬できなくなるけどね。