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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

手にした石を据えることで,世界の構築に携わること。

いまだにお茶を大好きだと言えない。好きと言った瞬間に言いたかったことと違うものになる,というのも懸念材料である。

先日パリ在住のブルガリア人女性からインタビューという形で質問をもらった。私の解答が英語からフランス語に翻訳されて,彼女のサイトに載るようである。「あなたにとって茶道とは?」っていう質問に,ちょうどフランス繫がりだし,サン=テグジュペリの「人間の土地」から引用して答えた。
サン=テグジュペリは,“人間であるとは,(中略)手にした石を据えることで,自分が世界の構築に携わっていると感じることである”と言いました。私にとってお茶は,この文脈でいうところの“石”です。」

 

分かりにくいですね。イメージ画像(実物)としてはこんな感じで,小さい石(茶碗)を据えています。 

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お茶菓子を買って道具組みを考えるとき,お茶を点てるとき,野点するとき,お茶の写真を撮るとき,加工するとき,後から省みるとき。あぁこれが私の世界の構築の仕方なのだ,と腑に落ちる。幸せな瞬間は他にもあっても,そんな風に思える瞬間は他にはない。もう「大好き」とかいう言葉でも表現したくない。私はこう生きていたいと,これでもかと分かっているのに,私は来年か再来年どこにいるか,そんなことで悩んでいたのだ。

 

世の中には,本職を別にしながら茶人として活動されている方々が何人もいる。これがしたくてどこに行くっていうのも大切だけど,どこにいてもこれをしてる,っていうことの方が大事だ。なぜなら私は,当初の目的地に無事にたどり着いたことは,過去に一度もないから。

 

例えばある人が「小学生のときに,宇宙工学という人生をかけてもいいと思えるものを見つけられて,僕は運がいい」と言って,今もその夢を体現しているとして。その人をいつまでも羨ましがってばかりいる人生でいいのだろうか。
本当は私も,人生をかけてもいいと思えるものを,もう見つけているのかもしれない。少なくとも「これをしてるとき世界の構築に携わってるな」と思えるものは見つけた訳で。
実は茶道をしている年月よりも,中学で辞めた書道の方がやってた年数は長い。しかし書道に人生をかけていいとは思っていないし,いつそれに出逢ったかとか,続けてた年数なんて,全く関係ないのだ。今一緒にいるものこそが,今の私に関係がある。
だから私はいい加減認めないといけない。これから出逢うかもしれない素敵そうな事物より,目の前のお茶が私に見せてくれている世界の方が,もう既に素敵である,と。 

 

写真技術とお茶の技術,知識の欠如のせいで完成したものも精度が低く,それを自分の全てだと言い切ることに躊躇いがあるのは分かる。でも自分の作品をAll of meって言い切れるのは一部の人であって,今すぐそんなこと言えてたら逆につまらない。

どの分野にいても苦心するなら,生きていたい世界を構築しながらの方がいいでしょう。数年前まで私の生活に存在してなかったお茶を,a part of meと言い切れるだけで,今は充分である。

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