それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

花は盛りに。


遠くから赤色が見えて,あれって椿だったかなと思い近寄ると,それはサンザシだった。

今日の茶菓子は椿の上生菓子にしようと思っていて,生の椿を探しに,私は大学へ芝刈りに。そうでなくてもいつも,スティックタイプのハサミを持ち歩いているのはそのためだ。しかしハサミは必要がなかった。木の根元には,枝ごと折れたサンザシが落ちていた。

 

サンザシを拾い,椿はまあいいかと来た道とは別の道を歩くと,目に入ったのは白い椿である。茶花として使うのは蕾の状態の椿だけで,こんなにも開ききった,むしろ朽ちかけている椿など誰も見向きはしない。茶室の中だけでなく大学内でも,白から黄土色へと変わりつつある椿は,見向きなどされていなかった。

 

頭の中の吉田兼好が「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と話しかけてくる。そうですよね。「茶花として使えるかどうか」なんて,人間の勝手だ。蕾を愛でるのも,枯れた花を愛でるのも,どっちが偉い正しいなんてないと思うのだ。

 

利休の教えを書き写したとされる南方録から,「花によりてはふわふわといけたるもよけれど,本意は景気をのみ好む心いやなり」との一文。花の美しさを見せるのではなく,花を活けるその人の心構えを見せろ,とのこと。

 

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枯れた花でも,どういう訳か,派手になる。

 

この茶はありや,なしや。

私は正解を示そうとしているのでもなく,ただ,問いを投げる。

 

遠州流が綺麗寂びなら,私は侘び派手の路線を開拓することにしましょうか。

 

 

 

 問いの話はこちらでもしてました。

 

「人の言葉」を聴くこと。

 

今年の始まりをまだはっきりと覚えている。昨年の大晦日に書いた上の記事に,桐谷ヨウさん(id:fahrenheitize)がブックマークしてくれたのが元旦だった。(そういえばブログタイトル変わってます)

 

そのブクマに対する私のコメント。まだファーさんって呼んでる。

 

夏頃,そのヨウさんに「関西行くならズイショさんにも声をかけてあげてくださいよ!」と言われ,何の脈絡もなくご連絡を差し上げたにも関わらず,ズイショさん(id:zuiji_zuisho)は会ってくださいました。もう一つ似た流れで,ズイショさんが「はせさんは」と仰っていて,そうじゃなくてもお会いしたかったのですが,はせおやさいさん(id:hase0831)にお会いできたのは,その後押しもあってのことでした。

ブログを細々続けていて良かったと感じる一年で,はてなブロガーの皆様,本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

 

同時に,あの人に会ったら?って言われたとき,無理して会わないのも一つの選択なのだろうけど。不可能でない限り,目上の方に「〜〜したら?/するといいよ」と言われたことは,全て本当にやってしまった下半期だった。従わない理由を考える必要はなかった。私がしたかったことは,研究対象だろうとなかろうと,一人でも多くの興味深い人に会うことだったので。

「この人の言うことなら正しそう」とか相手で判断するのではなく,自分が従いたいかどうかを考えていたから,判断が早かったのだ。逆に自分がそうしたくないなら,好きな人や尊敬する人に何か言われても,特段従わなくていいと思う。それでうまくいかなかったら,その相手のせいにしてしまう恐れもあるので。

でも上の例で言えば,誰に言われなくてもズイショさん会いたいじゃないですか。私どんだけ初期の頃から読んでると思ってるんですか!(3年前以上から) それを後押ししてくださる言葉を聞き入れることって,至極当然だと思うんですよ。

 

選びたい選択肢の話は上の記事でもしていた。

選択肢の選びようが無い状況も多い中で,最初から最後まで自分で選べるだなんてことは少なく,私も予想外の連続だけど。それでも自分で選んだと思えていなければ,何かを恨んで生きることになる。逆を言うと,自分裁量だと思えてる範囲内では,幸福度は高い。

 

人類学がそういう手法だからっていうのもあるけど,研究の方でも,お会いしたい若手のお茶人さんのところに,次から次へと伺っていた。

それはそれはもう,私に必要な1年だった。頭の中は「自分で選んだと思っている選択がもたらした現在」と「会ってきた方々の言葉」で溢れかえっている。

来年は,「自分の言葉」が散々増えることでしょう。

 

皆様も,よりよいお年をお迎えください。

 

 

「お茶と同じぐらい」大事であるということ。

 

飲食店に茶器と茶菓子を持ち込んでお茶を点て始めるのは,かなり非常識である。だが,私はした。学部時代の先輩と会うことになっていて,お茶セット一式を持っていたのだ。
ご飯とお茶をいただいた後にお手洗いに行っている間に,先輩が会計を済ませていた。女性の店員さん2人が「お茶の研究ってどういうことやるんですか?」と話しかけてくる。何か言ったんですかwと先輩を問い詰めると,「茶人ってどんどん売り出していかなきゃダメだよ」とか言ってた。

 

 

次の日,その先輩とまた別の先輩と彼女さんのおうちにお邪魔していて,私の「お湯いただいてもいいですか?」が始まる。お茶のある風景を撮っている間,先輩たちは各々好きなことをしていた。そしてお茶を撮ってる私も,当たり前のように好きなことをしている訳である。

「〇〇とお茶どっちが大事?」と訊かれれば,秒で「お茶」と返答するようになったここ数ヶ月。縁が切れた相手のことを話すときも,私はいつも「お茶より大事じゃなかった」みたいな言い方を,本当にする。「いや,(お茶と比較しなければ)人間の中では優先度かなり高かったんですけど」と定型句のように言っていた。そして今日のお茶を通して私が思ったことは,

「こんな私にも,お茶と同じぐらい大事な人たちがいる」ということだ。

 

 

 

呼吸するようにお茶をするとき,もしくは高揚感の中にあるとき,「いや,良いんですよ,私のお茶は,だから」と口を衝いて出る。そういう時の写真を見れば,幸せな人のお茶が写っている。自分のコンディションも,お茶を通して確認する。

私が自分のお茶を好きなとき,隣にいる人たちのことも好きだ。どちらが先か分からないけれど,どちらも好きだ。急にお茶を点て始めるって,なかなか誰の隣でもすることではない。身体が正直なのを感じる。最近は感覚が理性を追い抜いている。

*1

 

例えば「お茶と同じぐらい好き」と言われた場合に「おい俺はお茶に勝ってないのかよ」とか言ってくる人は,私が言う「お茶が好き」の意味を分かってないと思うし,心配しなくても私はそういう人のことは別に好きではないと思う。
「よっぽどお茶が好きなんですね」とか言われると閉口する自分がいるのは,私がお茶に向ける気持ちが,好きだ好きだと日常的に出る「好き」じゃないから。そんな意味の「好き」を抱ける存在が私にもいて,よかった。
これまで私の中に浮かんでは消えてきた「好き」という感情の,いかに瑣末なものか。「自分対お茶」の付き合いのように,「自分対人間」の付き合いもできるといいな。

 

2015年までは完全に荒みきって人間の心がどこかに行っていたのを感じたので,2016年の目標の一つに「Love someone」があった。

叶わないまま,次の年を迎えるかと思っていた。

 

 

本当はもっと前から,叶っていたのかもしれないが。

 

 

*1:最近はお茶っていう,すぐに社交的な気分になれるトリガーができて,自分の心が解放されているとき,どうしても誰かを信用したくなるし,そこに誰かがすぐに入り込んでくる。でもそれ以上に,もっと自分の感覚を信用すればいい。