複業という働き方を選んだ理由
会社員じゃなくて「お茶」で生きていきたいんだよね? と言われることに違和感があった。上の記事に書いたような理由で「お茶が好き」と言えなかったからだ。
あまりいい茶道教室に出逢えず,そちらの「茶道」にはそそられない。そして「茶道」の世界で働くことは,そちら側の「茶道」をしている人達がお客さんになるということだ。
それを望んでるんですよねと推察されれば,「全然違います」というのが回答になる。
こんな思いを抱えつつ,他の言葉で説明できないので便宜上「茶人」を名乗ったりしながら会社員を1年以上。私の説明の仕方が悪いのもあり,「茶人」と名乗って良かったことは,多分ない。
仮に興味を持ってもらえるとしたら,茶人だからではなく,活動の中身次第だったりするのだから。
新卒でIT企業に入り,一貫性がないと言われ続けてきた。しかしこの選択も,上に書いたような,どのコミュニティに属し,誰を相手に仕事したいかを考えた結果だ。
秋入学だったので茶人の修士論文の提出と就活の時期が重なって,就活より修論を優先した結果に就いた職。*1 1社目ながら,フルフレックス制でリモートワークと副業が可能だったため,個人的なお茶活動も辞めずに済んだ。(私の意志で辞めることはあるだろうけど)
私からしたら,ここ数年はただ「お茶をしていただけ」で,一貫性しかない結果だ。
ある茶道教室にお金を払い続けていたくなくて,もう離れた「茶道」の世界。自分自身が茶道界にお金を納めたくなかったのに,職業として茶道界に身を置くのは自己矛盾だと思ってきた。(茶道教室や流派に納めていないだけで,毎日和菓子と抹茶はいただいているので,エンゲル係数的にはかなりお金を落としているという前提ありきだが。)
地球上の70億人ぐらいは茶道教室など通っていないし,お茶にわざわざお金を払いたがる人ばかりではない。
つまり会社員と茶人の二足の裸足(草鞋も履けていない)の私が葛藤していたのは,サラリーマン(現職)についてはない。
自分が茶道教室にいい思い出がある訳でもなく,今は教室に通ってないのに茶道がさぞかし素晴らしいものかのように話して生きていくぐらいなら,会社員の方がよっぽど良かったのだ。
ただし,「自分がいいと思って見つめているお茶」はいいものとして,論文や文章や写真なりで伝えていくことはしている。それをするには,会社員が最適な身分だったかもしれない。*2
つまり「お茶」で生きることはともかく,「お茶」と生きていられれば良かった。きっとそれは今できているから会社員をしてきた。
今後何を失っても,そのときはそのときで「お茶」だと感じることをしているか,「お茶」がなくとも幸せで生きているだろうとは思う。
「お茶」を振る舞って生きていくことは,決して最優先事項ではないからこそ。
葛藤も逡巡も,漠然とお茶の人と思われていることに関するものだった。
必要なのは,「好きなほうのお茶を好き」と言える活動だ。
それが仕事かどうかは二の次三の次だった。
逆に「好きじゃない方の茶道を好き」という活動など,仕事でもプライベートでもしたくない。
数ヶ月前,何でお金を稼げたら嬉しいのか尋ねられた。2秒以内に,「自分の書いたものや撮ったものが評価されれば嬉しいよね」と答えた。別にお茶の人に限らず,対外的な表現活動をしている人には共通する想いだと思う。
つまり私の想い(願望)には,お茶そのものは含まれていない。お茶をしていること自体は目的でもない。*3
ただ単に,今後何をしていくかを考えたときに,そこに「自分が好きなほうのお茶」があるだけなのだ。今後何もしないなら,そこには「自分が好きなほうのお茶」も何もない。それだけ。
好きなほうのお茶を好きと言い続ける活動の先で,できることがあるのも分かっている。それはお茶に何も関係ない世界で私がなし得ることよりも,大きいような気がしている。
好きなほうのお茶を好きと言える世界が今ないなら,「無い世界は創らなければならない」という想いを,過去数年ずっと反芻している。個人的なお茶ばかりしていないで,「そろそろ人の役に立て」という言葉も脳内で聞こえている。
......というわけで,年内にはご報告できそうな話があります。
会社員の働き方とお茶の仕方に関して,まだまだフィールドワークは続きます。
以下は私以外の茶人の事例です。この参与観察の延長として,私自身もIT企業に入社しましたが,今後もフィールドは変わる可能性があります。
欠点が事態を悪化させるのではなくて。
思考は現実化するというのは本当で,「このことをもう続けたくない」「もううまくやっていきたくない」と思っていれば,百発百中で続かない。「うまくいかないだろうな~」という疑いも,結局思考の一部なので,今のところ百発百中でうまくいかない方が当たる。
換言すると,「うまくいかないだろう」「うまくやっていきたくない」と思っている状態で,うまくいくことはないということ。
うまくいくかとわざわざ疑わなくても,何もしなければだいたいの出来事はうまくいかないのだ。
逆に「何かしたい」と思えるのならそれだけで,「うまくいかないだろう」と思ってるだけのときとは違う結果が出せるはず。
私は「あっ(これ以上はダメだ)」と思う閾値が低い。損切りが異様に早い*1。物事の初期でそう思うのなら,実際にダメな場合も多いし,その予感が当たっていたとしても,予感が当たればいいというものではない。
ダメだと思ってしまえば,その後は「どうせダメなんだろうなぁ」という前提を元に話が進んでいく。このとき,私の感じる「ダメだろうなぁ」は周りの人(=自分以外の当事者)にも伝わる。
物事を終わらせるためには,文句を言ったり険悪になったりする必要もなく,「これ以上努力しません」という諦念を見せるだけでいい。言葉で伝えなくても,当事者に察してもらうだけで,物事は終わりに向かう。
なぜかといえば,「うまくいかないだろうな」という空気を漂わせれば,それが相手からも「うまく行かせようとする努力(労力,対策)」を奪うからだ。
誰だってうまくいく可能性があるから努力するのであって,その可能性を全く散らつかせなければ,うまくいくものも頓挫する。
関わりのある他人(=当事者)に見せてはいけないのは,自分の欠点(マイナス部分)ではなく,「これ以上努力しません」「諦めてます」という姿勢なんだと思う。
私の言う「うまくいかないだろうな」は,問題が解決するなんて期待してないって意味だけど,そう思ってることが他人に伝わってもいいことは無いんだろう。
他人は自分の鏡だと言わずとも,自分がうまくやっていく素ぶりや余地を見せなければ,相手だって合わせてくれない。
どんな物事だって失敗する可能性は絶対にあって,誰が悪いわけでもなく頓挫する可能性もあって,その可能性を改めて指摘しても意味はない。
頑張ってうまくいく可能性を限りなく高くしても,失敗する可能性は0にならなくて,疑念なんて消えない。
つまり,限りなく失敗しなさそうな物事を探したって,失敗することはある。
絶対0にならない失敗可能性を前に諦めてしまって,ましてやそれが他人に伝わってしまっては,余計にだいたいのことがうまくいかないのだ。
もう少し状況を限定して,二者間の問題について話すと。
相手とうまくやっていけなくてもいいと思い始めるのは,いつでもこっちだった。
確かに,相手が消え失せても私はまだ生きている。いつ消えてもいいというのは事実だったとしても、消えてもいいと思っていることを漂わせたり,相手にダイレクトに伝えたりする必要はあったのか。
少なくとも相手が目の前にいる間は,相手がいなくなってもいいというスタンスを漂わせる必要も,本当はなかった。
なぜなら相手はきっと,私の性格や行動は最初から了解していて,こちらの欠陥に辟易するのではなく,私が漂わせる「相手がいなくなってもいいというスタンス」に反応していたのだと思うから。
つまり,物事を悪化させていた理由は,私そのものの欠陥よりもっと他にあったのかもしれない。その理由とは,「これ以上努力しません」「諦めてます」という私の態度だ。
近しい当事者同士なら,欠陥があるのはもう最初から織り込み済みのはず。その欠陥も,急に始まったことでもないだろう。
つまり物事が悪化するのは,性格などの特性のせいではなく,大体その後にどう対応するか次第だと思っている。
お互いの態度や振る舞い,性格的な特性、言うなればサーバ側やフロント側の実装は,別に最初からそういう設計だと知っていた。
しかし私の「諦めてます」という態度はきっと,相手の全仕様を否定しているのに近かった。
私自身も,何か文句を言われれば,自分の仕様を否定されたかのようにムキになってきた。でも本当は,システム側の不具合を指摘されたのではなく,私が諦念を散らつかせていた,実装とは別の部分(=運用)に文句を言われていた気がする。
だからこそ,諦念を散らつかせないだけで,そこまで悪化せずに済んだこともあったのだろうな。と思うけど,やはり諦めてしまうにも理由はあったし,本当に諦めるべき(頑張らなくていい)ときもあるので。
こうして,諦念を漂わせてないで運用で回避したいな,と思えるようになるには,諦めたくないと思えるプロジェクトを担当する必要もあったらしい。
この点はもう少し,考えることがある。
*1:そのくせ全然得になっていないお茶をずっと続けていたりする
消えない過去を恨まずに生きるということ。
「え,それ今?」と思う出来事が毎日頻発している。というよりは,何が今の自分に必要なのか,毎日明らかになり続けている。あるものが嫌だと分かれば,少なくとも次の瞬間からは,嫌なものと関わらないように生きることを目指すだろう。
そうやってこの瞬間瞬間に,大事なものとそうでないものを分けている。
例えば,なぜ家に向かうこの道を歩いているかと言うと,私がその場所に引っ越したからだ。最寄駅から会社まで一本だから。じゃあその会社を選んだのはなぜか。
なぜかその日は着物を着ていること,そこになぜかハイヒールを合わせていること*1。右手には,先日自分で焼いてきた茶碗をぶら下げていること。
下を向いて歩くも,前を向いて歩くも,目の前に見えているもの全てが答えだ。全てすべてが,自分の決断の結果だった。
好き好んで着物に合わせたヒール。足を振り上げれば,靴はすっ飛んでいって,身体の一部ではなくなるだろう。
向こうに見えるビルは? いま歩いているこの道は? 足を振り上げようと何をしようと,消えはしないし変わりもしない。
下した決断とその結果は,どうやら消えないのだ。蹴飛ばして足から離れたヒールのように,目の前から消せるものはいくつかあっても。
傷つかなかったかのように,何にも心を砕いてこなかったかのように,何も起こっていないかのように生きていくことは,もうできない。
同時に,何か判断を誤ったからといって,何も終わったり消えたりしない。むしろ,傷ついた自分なり,それでも生きていかなくてはいけない将来なりが残る。
私の中に,「人を嫌いになったままではいけない」といった,義務感の混ざった,良心とは別物の気持ちが浮かぶ。
それは,誰かを嫌いたくないという気持ちとは違う。義務感や罪悪感は,願望ではないからだ。
ただし,過去に失望した誰かと表向きは再び仲良くなれても,失望したり嫌いになったりした事実は消えない。受けた傷なんてもってのほか。
例えば蹴飛ばした靴が戻ってきたとして,元のように両足揃えて履けるだろうか? 履いていたいだろうか?
これから心を砕かなければいけないのは,いや「心を砕きたい」のは,あなた達ではない。*2
もし「嫌いになってはいけない相手」という存在があるなら,それは好きになれるかどうかで判断するべきだ。好きだという前提がない相手は,許せるか許せないかを考慮する時間がもったいない。*3
許せるか許せないかで天秤にかける相手は,好きかどうかで判断できる相手に勝てない。
人を恨まずに生きる方法は,その人を許すことだけではない。
誰かを許すのに使う労力や迷う時間を,いま好きな人たちと幸せでいるために遣うことも,方法の一つだと思う。
いま見ていたい世界はもう,あなた方が知ってるどの私が見ていた世界とも違う。別に本人たちには伝わらないだろうけど,私が時間を遣いたい事柄や人は,もう他にある。
びっくりするほど,さようなら。
正しいと思える決断をし続けてきた結果が今なら,過去を向いて言うべき言葉は一つ。
「あー(あの時は)楽しかった!」だろう。
その意味では,過去の一瞬一瞬にありがとうと言えそうだ。