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それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

好きでいたいから,好きでいること。

 

ある人がただ可愛いだけで,ただ格好いいだけで好きになれるだろうか。

人を好きになれるのは,自分が相手に意味を与えているから。他の可愛い人や格好いい人より,あなたじゃないといけない理由を自分で創り上げる,その意味付け行為こそが恋だ。

 

 

5年付き合ってた元彼をたまに思い出す。その人がぼちぼち年上だったこともあって,あたしはデート中に財布を出したことはおろか,伝票を見たこともない。旅行の計画を立てるのが好きじゃないあたしの代わりに,いつも全部決めてくれてた。理不尽だったあたしにも,怒ったことは一度もなかった。

それでもたまに思い出す彼の姿はあまり格好よくなく,付き合いが長くなるにつれて雑に接していた記憶も多い。彼を好きだった期間は確実に,少なくとも彼に関しては,確実にあるのに。

 

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ある夜にコンビニで抹茶ラテ(リプトンでした)を見てたあたしに,彼は買うかどうか尋ねた。あたしは断って,抹茶ラテを買わずに帰ってずっと寝てた。次の日彼はあたしより先に起きていて,あたしが好きなパン屋でパンを買ってきていた。あの抹茶ラテがその隣にある。

窓から差し込む光が白くて,あたしはまた横になった覚えがある。あの朝の雰囲気だけはいつまでも忘れられない。

 

たとえ事実であれ感情を伝えるのは難しく,愛されてる,なんて言葉は陳腐だ。でもあたしの足りない言葉で必死に愛とやらを説明するとしたら,今でも浮かぶのはあの朝。それまで抹茶ラテ以上にお金のかかることを,これでもかとしてもらってたのに。

あたしの表現のせいで陳腐に受け取られるのが嫌で,この出来事を話すのをやめてしまった。こうやっておおっぴらに話したのは初めてだ。

 

なぜあの朝を思い出すのか,理由は分かってる。嬉しかった記憶がこれだけ鮮明なのに,彼にそれを伝えた記憶が,目一杯のお礼を言った記憶が無いのだ。

あれが別れる2ヶ月前のことだった。

 

遠距離だったから,その抹茶ラテのときから最後別れ話をするときまで会うことはなかった。嬉しかった出来事も,今となっては後悔に近い形で心に残ってしまっている。いざ別れるとなってようやく,「もっと大切にすれば良かった」とこんなあたしでも思うようになった。同時に,「もう大切にできなくなってるから終わりなんだ」と理解した。

 

 

大切にできなくなるって一体なんだろうか。

あたしは彼を「好き」だと意味付けし続けることを放棄したのだ。

 

 

過去を振り返れば,「この人を好きなんだ」と心の中で反芻するときが一番盛り上がっている。気持ちが冷めるというのは,この人を好きだと反芻しようとする気も起きないことと同意だ。逆に,もし最悪なことがあっても,その人といることより別れることの方が不幸だと意味付けるなら,その人を好きでい続けられるだろう。

 

 

恋とは「好きでいたいから好き」であること。

あたしが言う「意味付け」とはそういうもの。

 

 

自分を本当に好きでいてくれた人に気持ちを返せない人間が,他の人達に何をできるだろう。その後は誰にも優しくできなかった。それまでの恵まれ過ぎた待遇を離れて,学生との付き合いに慣れるっていう点では他の人と付き合ったのも良かっただろうけど,彼らには離れたくないっていう気持ちが沸かず,最後は自分から遠ざけたり拒絶したり。

「離れたくない」のも「この人といたら叶う夢も叶わない」と思うのも,あたしにとってはきっと沸くものじゃない,全て自分が相手に与える意味付けだ。好きだと意味付けする作業を放棄してしまえば,もう「好き」とかいう現象は起こらない。この人いい人だなって思うことはたくさんあるけど,それは意味付けじゃなくて事実の評価かな。

 

 

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