それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

不満があっても好きでいる,「覚悟」

 

もしお茶がその辺の男だったらとっくの昔に別れてるわっていうぐらい,あたしは茶道に対する,いや,茶道にまつわるものへの不満がある。お茶そのものが嫌いな訳じゃないことは分かってるけれど。

あるカップルが喧嘩ばっかだったけど一年過ぎた頃からおさまってきたなんて話を聞いて,その一年間どうして耐えてたの?!って思ってたけど,振り返ればあたしの茶道歴の半分以上は不満と共にあって,それなのに,お茶をもっと好きになることができた。

ちょっと前に更新した不満エントリーは消した。茶道部の中で一番お茶が好きな人間が辞めたくなるような不満を,ブログでは露にできない。逆に,どれだけ「茶人でいること」が自分にとって楽しいかなんて表現しきれないだろう。

 

大学1,2年の時に,自分が本当にやりたい訳ではないことで死にそうになってた反動で,抱えなくていい不満と付き合うことは本当に時間と労力の無駄だと思うようになった。これは今でも真実だと思う。ただ不満を我慢してるだけじゃ成長しないし何の意味も無い。でも一回の不満で辞めたりしなかったから,その後もっと好きになれた。

 

茶道をしている意味を見つけられるように,家でも毎日お茶を点ててきて10ヶ月,茶道をする理由をハッキリ掴んだわけでもないのに,明日からお茶を点てないなんてことは考えられない。

 

今のあたしはもう,その辺の男のようにはお茶を捨てられない。

 

 


好きでいたいから,好きでいること。 - こ の 日 常 に 奇 跡 起 こ せ !

 

何かを「好き」になること。

この前お茶会に,40代の方とその姪っ子さんと3人で行ったとき,自分の倍人生経験を積まれている方や,自分の半分しか生きてない子供と一緒に行動したり仲良くなったりするのは茶道をしてたからに他ならない。お茶会に行けば自分の3倍以上生きてる人達ともお話する訳で,そんなときは意外とコミュ力の高い自分を発見したりする。

自分だからお茶をこれだけ楽しめてるんだろうなと思うとき,あたしはお茶だけでなく自分を好きになれているんだろう。

 

努力は自分を好きになるためにする行為のことだと思ってたけど,趣味もきっと同じ。趣味に取り組んでるときの自分が嫌いだなんてことはない。その対象を好きでいたいから好きでいるっていうのは今まで納得できなかったけど,自分を好きになれる行為を好きになるのは当たり前で。

 

自分が「好き」だと思ったものに対してする意味付けは,その対象を「好きでいようとする意志」のこと。

とりあえずなんでも「好きでいようとする」ことに違和感のあった自分も,「それをしている自分が好きなら,その対象を好きでいる意志を切らさない」と限定することで納得できた。

そして,上のエントリーで「好き」を定義したときに自分に足りなかったのは,対象を好きで居続ける覚悟。

 

 

お点前の最中に静かに興奮することがあるのに,卒業するまでの間,お点前せずに過ごすなんて選択肢はあるだろうか。(指を)文字通り火傷しても,ここ数ヶ月泣いてなかった自分がお点前の最中に泣きそうになっても,そんな理由で茶道部を辞められるだろうか。

 

普通にただの趣味だったら,まともにぶつかって落ち込んで不快になることもない。そんな付き合い方ができる対象があるだけ幸せだ。

それに,ただ手間暇かけてお茶を飲む行為をこれだけ好きになれるってことは,世の中の大半のものに意味づけして,好きになれるだけのポテンシャルは秘めてるよね。

 

 

茶数寄の4か条の一つは「覚悟」*1

それは,お茶を一生の仕事として続けていく覚悟のこと。

 

これは趣味のレベルの話ではないと思う。覚悟を持とう,と軽々しく言うにはいささか重すぎる。

だから,今すぐ持てるものじゃないにしても,

「覚悟」と付き合っていこう。

 

何を気負わずともきっと,あたしはもう

思ってる以上にお茶が好きだ。

 

 

*1:覚悟,作分と手柄,冷え痩せ,道具の選択の4つ。侘数寄は胸の覚悟と作分と手柄の3か条で,こちらの覚悟は少し意味が違うかも。と無駄に注釈