それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「何を成すか」に囚われない

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カーネギーさんの名言に

「持っているものや,あなたが誰であるか

どこにいるか何をしているかが

あなたを幸せにまたは不幸にしているのではない

あなたが何を思っているかなのである」

っていうのがある

 

それとは別に

老子思想の中で一番しっくりきた言葉は

あるのは「やり方」ではなく「あり方」だけだ

 

 

何も成していないあたしが

なんでこんなに待遇よく

幸せに生きていられるのか全然分からなくて

逆効果な恐縮ばかりしてたけど

 

あたしのしたことなんて

人に自分を紹介するための説明用でしかなく

ほんとうに自分を示せるのは

自分が考えてることと

どう生きてるかなんだと思う

 

(もちろん,自分の考えてることが行動に現れてるから

どちらが先だともより重要だとも言い難いけど)

 

 

生きてしまって

過ぎ去ったあとからでは

いじりようのないもの,

「何を考えているか」「どう生きているか」を

ずっと大事にしてきた

 

今は大事にできてない気がして

そんな気がするだけで焦燥感に襲われる

 

 

ここでいう

 「大事にする」ってなんだろうね

 

人それぞれ誰もが何かを大事にしてるのにね。

正しさとか自分とか「何を」大事にするかというより

「どうやって」大事にしてるかなんでしょう

 

 

 

今年4月時点の自分が使いたいと思ったものに時間を使えるように

色んなものを終わらせてきた。

本当は色んなものに手をつけていくのは好きじゃない

どれも中途半端になっていく感覚が払拭できないから

 

 

でも諦めないことと

新たなことをしないことは違うから

 

 

生き方としての中途半端を嫌ってきたあたしは

結局自分のしてきたことが半端であることばかり気にしている

 

どうありたくて何をしてきたかを考えたとき

一番気にしなきゃいけないのは

「どうありたかったから」なのにね。

 

 

それについては最近考えてなかった。

「あり方」がはっきりすれば

目の前の善し悪しに囚われてる今とは

違う生き方をしていける気がする