「何を成すか」に囚われない
カーネギーさんの名言に
「持っているものや,あなたが誰であるか
どこにいるか何をしているかが
あなたを幸せにまたは不幸にしているのではない
あなたが何を思っているかなのである」
っていうのがある
それとは別に
老子思想の中で一番しっくりきた言葉は
あるのは「やり方」ではなく「あり方」だけだ
*
何も成していないあたしが
なんでこんなに待遇よく
幸せに生きていられるのか全然分からなくて
逆効果な恐縮ばかりしてたけど
あたしのしたことなんて
人に自分を紹介するための説明用でしかなく
ほんとうに自分を示せるのは
自分が考えてることと
どう生きてるかなんだと思う
(もちろん,自分の考えてることが行動に現れてるから
どちらが先だともより重要だとも言い難いけど)
*
生きてしまって
過ぎ去ったあとからでは
いじりようのないもの,
「何を考えているか」「どう生きているか」を
ずっと大事にしてきた
今は大事にできてない気がして
そんな気がするだけで焦燥感に襲われる
*
ここでいう
「大事にする」ってなんだろうね
人それぞれ誰もが何かを大事にしてるのにね。
正しさとか自分とか「何を」大事にするかというより
「どうやって」大事にしてるかなんでしょう
*
今年4月時点の自分が使いたいと思ったものに時間を使えるように
色んなものを終わらせてきた。
本当は色んなものに手をつけていくのは好きじゃない
どれも中途半端になっていく感覚が払拭できないから
でも諦めないことと
新たなことをしないことは違うから
生き方としての中途半端を嫌ってきたあたしは
結局自分のしてきたことが半端であることばかり気にしている
どうありたくて何をしてきたかを考えたとき
一番気にしなきゃいけないのは
「どうありたかったから」なのにね。
それについては最近考えてなかった。
「あり方」がはっきりすれば
目の前の善し悪しに囚われてる今とは
違う生き方をしていける気がする