それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

所属コミュニティからの解放

今まで主専攻ほったらかしてベンチャーサークルしてたにも関わらず,ゼミを決める段階になって急に「この研究室がいい!」なんて言えない…とか,今まで学科から離れてたからみんなのテンションについていけないのかな…なんて思っていた。

 

なんだろう,学科に所属しきれていないことが,精神的に足かせだったり厄介に感じたりしてた。そして常に自分の立場に自信がない。それはベンチャーの団体の中においても同じこと。そのくせベンチャーを言い訳にしてた。

 

先日そのサークルの元代表に「お前変なやつやけど,普通の中に入ろうとしてたやん」って言われて苦笑いするしかなかった。今そのサークルに対して思うのは,役に立てなくてすみませんでしたってことだけ。どちらが先か分からないけど,自信がなく,かつ,役に立てていなかった。

 

 

そんなある日,学科での付き合いが嫌だってハッキリ言った子がいた。あたしが感じてることと同じことを言ってた。

 

あたしだけじゃないのね,ベンチャーやってたからとか,学科にあんまいなかったからとかじゃないのね。嫌なものは嫌と言ってもいいのかも。こうして文字に起こせばなんてことのないことを考えた。

 

 

なんであたしは「普通」に混ざろうとしてたんだろう。面倒を嫌って普通に混じるならともかく,普通に混ざろうとすることの方がよっぽど面倒だった。たまに学科の子と喋ったときに,「めちゃ優しいな」「あたしをこんなふうに評価してくれるんだな」って思う方がよっぽど幸せだった。

 

いつも一緒にいるわけじゃないあたしにも,それだけちゃんと接してくれる人がいることの方が,よっぽど価値がある。

 

それもあたしが少しは混ざろうとしてたからこその結果かもしれないけどね。例えば本当に全く学科での関わりがなかったら,こんなには優しくしてもらえてなかったのかも。「そんな理由で態度変える人とは逆に関わりたくないよ」っていう思いをすぐ打ち消そうとする思考もまた,混ざろうとした理由の一つ。ゼミも授業もあるし,これからも付き合いはゼロにはしないんだけど。学科の子だからとか関係なく付き合ってる子だっているわけで。

 

 

本当はこんな分かりきったようなことを書き出すのも憂鬱だ。でも断片的に口から出すよりも,早いとこ整理をつけないといけない。

 

あたしが実際に普通かどうかは別にして,結局本心では完璧に混ざろうとしてない。こんなことをグダグダと考える私は既に「普通」だけど,それでも,ってこと。既に普通なのになんで生きづらさを感じるのか。混ざらなくて済むか,生きづらくなくなるか,ホントどっちかにしてほしい。

 

そしてその原因はいい加減分かってる。

 

 

「理性の部分は人より発達してると思うけど,感情の部分も理性で押さえつけたり,押さえつけきれてなかったりする」「君は悟ってるのになんで変なとこ達観しきれてないんだ!!!(本当にこういう喋り方のやつです)」などと,じっくりお話した人々には言われる。元代表に言われた「変な奴なのに普通の中に入ろうとしてた」も上記に加えられる。

 

これらは自分の大きな弱点の一つ。自分がどうありたいかは常に頭の中にある。ありたい姿と違うあり方をするときや,生きづらさに歯がゆくなるときはいつも,感情が原因だったりする。感情より先に行動があった場合はまだいいんだけど。昨年は自分を自分で扱いきれてないというか,体が自分についてきていない感覚に襲われてた。抱く理想も感情も自分の内側から発生したもので,どちらに従うのが素直なのか,判断に全く自信がないのが現在の自分。こうなると,自分の内側に尋ねたところでまともな答えなんて返ってこない。

 

 

一生懸命なときの自分なら肯定できるからそうありたいと思って,でもあたしは学科(最低限絶対にやらなくてはいけないこと)以外に興味があったから,避けちゃいけないことに対して手を抜いてた。いや,やりかた次第で避けられたことだったかもしれない。でも卒論は自分の学部で書かなきゃいけないし,3年からゼミ入るんだしって言って,主専攻に関連のある事柄も地味に同時進行だった。なぜか。

 

興味のある(好きでやってる)ことに加え,絶対にやらなきゃいけないこともやってこそ「一生懸命」だと思ってたのかもしれない。もしくは,やらなきゃいけないことを放っておいているという事実が,何かに必死になってる最中もついて回るのが鬱陶しかった。でもそれは,その「やらなくてもいい何か」に必死になりきれてなかった証拠。人間の一生は短いんだから,その中で何か一つ以上必死になれればお釣りがくると思う。同時に二つ三つ必死になってもいいと思うけど,あたしの場合は二つ三つを意識しすぎて,何一つ必死になりきれていなかった。どれの専門性を高められたわけでもなく,薄っぺらい興味を浅く掘る程度でしかなかった。

 

弱点や能力のなさ,残念な現状を自覚していたからこそ,どこに所属していても自信がなかった。どれか一つに絞って専門的になることも,同時進行をもっと突き詰めることも,しんどい時期を越えるまで続くような気力も,全てが足りなかった。「普通」になろうとなんてしなくても,充分普通だよね。

 

 

ありたい姿を目指すなら,一生懸命になりたがってる自分を,自由にさせておくだけでよかった。他人や所属,別に死ぬほどでもないしんどさや,見た目しんどそうな自分への誰かのコメントも,気にしなくていい。手を抜いてる部分に注意が削がれるくらいなら,力を入れてる部分にだけ神経を注げばいい。

 

ベンチャーだったり学科だったり,億劫なことがあると所属のせいにして,そんな自分も嫌だった。だからここでは,所属しない/関わりをなくすとかいう意味ではなく,個人として行動の判断をするために所属から離れる必要がある。そして,言い訳を自分の外に用意しないこと。負の感情は他人を意識せず自分一人でいるときは絶対に起こりえないもので,行動を遮るような感情って誰かを意識してるときに起こる。

 

逃げ道をつくらないことが必ずしも厳しいこととは限らず,この場合は逆に楽になれるかもしれない。逃げ道になってた「所属」への不満こそが,あらゆる不調のもとだから。あれこれ気にせずに,自分をもう少し気持ちよく頑張らせてあげたい。