それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

上質な「問い」であれ。

 

後輩を見て「あの子(たち)も隅に置けないな」と思うことがあり,次の瞬間には「片やこっちは隅に置かれてる感」が残り,「ここが隅ならどこが中心だよ」と自分に問うた。

冷静に考えれば,このケースではその子たちが中心だ。そもそも当事者でもなんでもなかった私は,隅でも中心でもない。なんでもかんでも渦中だったら辛いので,自分のいたい世界の中心でいてこそ,「中心と隅」という概念が活きる。

 

例えば,私がよくいう「コミュニティの中でなぜか茶人キャラが一人いる状態」では,その茶人キャラは周縁にいるのだろうか?

お稽古止まりでない,自分で茶会をしたりするレベルの人は,放っておいても「お茶とは何か」とか「茶人とは」って考えてるけど,お茶に触れていない大半の人は,そんなこと絶対に考えない。そこに茶人キャラがいたり,その人のお茶を飲んだりすると,「茶人ってなんだよ」っていう問いが生まれる。

お茶について考えてる人に「あれは茶人じゃない」とやいのやいの言われることが負けであるというより,お茶とは何かと全く考えたことのない人に,少しでも何か思わせられる人の勝ちだと思っている。隅なら隅にいるなりに,できることはあるかもしれない。

 

そしてたまに自分も「Teaist」って呼ばれたり,「さすが茶人ですね」とか言われたりして,この人どういう定義で茶人って言ってるんだろうとか思うけれど,その人なりに「茶人とはこういう人だ」っていう答えが生まれてるんだろう。私が茶人を名乗って,それに相手が違和感を感じないのなら,そのとき自分は答えにもなっているのだと思う。

 

だから私の存在は「問い」でありたい。

その存在が「答え」でもありたい。

 

お茶の世界は,中心に行きすぎると,無邪気な問いではいられない。
それでも前に出た人の一握りだけが,答えになっている。


お茶をしていたとて問いでも答えでもない人,つまり誰かの出した答えに倣ってお茶をしている人ばかりの世界に,私はいたいのだろうか。

どこの中心にいたいだろう。と考えることは,
誰に問われていたいのだろう。と考えることだった。

 

私は宇宙の形を知らないので,ここが宇宙の中心でないとも言い切れない。
今日も一個の茶筅で,世界の隅か中心で,問いを産み落とし続ける。自分自身も問い続ける。

ただそれが,私が今していること。

そしてそれがTeaismと解釈されるようになって,Tea Ceremonyに代わる言葉になってくれれば,それ以上はないと思いながら,隅だろうと周縁だろうとお茶を続けている。

まずは自身が,上質な「問い」になれるように願いながら。 

 

お茶という在り方を考える契機としての問いではありたいけれど,周りの人に「お茶の世界によくいるような批評家」になってほしい訳ではないです。

同じ「問い」を一緒に考えることができたら,幸いです。

 

 

茶道教室を辞めます。

茶道教室に向かう道中ではよく事故に遭う。その日も結構高かった服が痛んだまま教室に着くと,来年の話をされた。通っている教室では,1月から半年以内に辞める人は,初釜(新年1回目の茶事)には出られないことになっている。なんでも初釜は「今年も一年よろしくお願いいたします」という意味の茶会だからだそう。初釜には参加してもしなくても,費用を払わなければいけないことになっており,留学や引っ越しで辞めることが分かっている人は,ギリギリまで通うのではなく年内に辞めるのが一番スマートなのである。

事故って満身創痍の身体は反射的に「お初釜は出ない方がいいかと思うのですが…」と答えた。最長でも6月末には卒業して引っ越さなければいけない。その手前に修論の締切,遠方へのフィールドワーク等々が控えており,欠席せざるをえないことも増える。これでも休まずに通ったが,フィールドワークで一ヶ月丸々休んだときでも,もちろん月謝は支払ってきた。今後通えなくなるので辞める旨を伝えたら,出席する人数が減るのは困るから初釜までは出てほしいとのこと。そんなに他の方も辞めてるんですか?と訊けばよかった。それが8月の下旬のこと。

 

「伝統的」な教室はこうなのか? 地方でお茶を習っている人達とお話をした。私が通っている教室みたいな形式もあり得るのかもしれないと,控えめに「うちは辞めるときに2万払うことになってますね」と言うと,「極道」と言われた。入門の際に「学生は続かないから」とかなり断定的に言われたので,1年は続けた。地方の方々は「みんな都合があるんだから,それ(誰々は続かないとか)は先生が言っちゃ駄目だよ」と言った。

 

地方から帰ってきて,月謝は払ってあるので,引き続きその教室にお稽古に行く。

「そろそろ次のお免状(ここまでのレベルの点前を習ってもいいですよっていう免許みたいなやつ)の時期になりましたので」と申請料とお礼,お菓子料はいくらですと説明される。もう辞めるって話をしたはずだ。「お免状が届くのはいつですか?」と尋ねる。前回のお免状は忘れた頃に届いたからだ。引っ越すこともあって辞めるのに。言いたいことは半分伝わったのか,「実家の住所を届け先として書いてください」と言われる。

伝えられなかった半分は,お免状なんていらんねやあんな紙切れ,である。地方でお茶をされてる方々が「先生はこちらのタイミングを見てお免状の話をしてくださる,お金のかかることだしね」と仰っていたのが羨ましく思い出される。お免状の話をされてしまうと,もう拒否権が無く黙って払うしかないなんておかしい。

 

道教室の中のような〈お茶〉をイメージするとき,私はお茶が好きだとは言い切らない。

 

結果的に人を茶道から離れさせるようなお茶をする人達が,茶道の先生としてお茶で生計を立てているのが,一部の茶道界かもしれない。実際,私より後に入会した人で,今でも続けている人は誰もいない。

お茶を生活のための手段にしてしまったら,お茶を好きな人達からお金をとることになるのだ。だから,余裕のある先生はお茶以外に職を持っていたりする。それは都市部でも地方でも同じである。

 

 

地方で目上の方にご馳走になったとき,お礼を言うと,その方は「教室変わってもいいから。お茶を楽しく続けてくれれば,それでいいです。」と仰り,胸が詰まった。茶道同好会の中でも同じ温度の人を見つけられず,教室の見学や体験もさせてもらえないまま即入門することになった茶道教室は上記の通りで,置かれた環境で「お茶楽しいね」と言っていられる人が羨ましかった。

私は「お茶楽しいな」と言うために,こうして毎日家で(たいてい1人で)点てるほかなかった。嫌だからとすぐ辞められないものに巻かれながら,「楽しいな」と思える場所は自分でつくるしかなかったから,今のこのスタイルは生まれた。

楽しそうに集まって茶道をしてる方々を研究対象にしているけれど,そういう人達と方向性が違うなと感じるのは,人が集まることに楽しさを感じているというより,自分の中に楽しさを見つけるしかなかったからだろう。

 

お茶が好きだからとお茶業界に浸かることは,他のお茶好きな人がお客さんになることだ。

もっというと,お茶業界における顧客の大半は,そういう茶道教室を運営する側の人々である。そういう層の人を相手にしていたいのかどうか,20~30年後にその人達は存命か,そのときにお茶はあるのかを考えなくてはいけない。

茶道を研究対象にする研究者になることも,お茶で生計を立てている一員になることと同義である。別にペットボトルのお茶を売るとかならともかく,文化としてのお茶でビジネスなんて,とりわけ今はしたくない。

 

散々お茶漬けになった生活の中で出た結論は,お茶を好きでいるために茶道教室を辞めることであり,お茶を好きな人達やお茶業界の人達を顧客として見たくないから,茶道そのものを仕事にしないことだった。お茶を追い続けるのなら,就く職は逆にお茶に直接は関係ないものになるだろう。熱意は劣れど,興味は他にもいくらでもある。

 

札幌のお気に入りの陶芸家さんは私に「絶対お茶続けた方がいいよ」と言ってくださり,先週お会いした方は「そこまで言うなら一生続けるんだな」と仰り,地方でお会いしたうちの一人は「あまんじるなさん(私)から世界中の若い方々にお茶の良さがお伝え出来ますよう」と仰っていた。それぞれ全く違う文脈での話だ。

私が見てきたようなお茶が嫌いなら,今いる範囲で自分の好きなお茶をすることが最適解のように感じるし,度を超せば,時には茶道史をつくる側に回ってもいいのかもしれない。私も,このまま黙って去るつもりはない。こんなこと書いてるけど茶道の論文の締切は先だし,まだまだお茶と生きますよ。

 

数年先のことなんて知らないけど,とりあえず明日もお茶に取り組んでいると思う。自分の好きなお茶は,そこにしかないから。でも自分が点てている限り,そこに確実に存在してくれるものだと思っている。

  

もしこの記事でその教室が特定されるなら,そういうことをしてるのが周知の事実であるということでしょうし,もし当事者がお気づきになられるようなことがあれば,「自覚があるのなら控えたらどうですか?」と言うまでです。

私としては初釜どころか来月のお月謝も,相手に金額を指定されるお歳暮も支払いたくないので,この記事に気づいていただけたら逆に,これをきっかけにして今すぐ辞められるかなとも思ってます。どんな円満に退会してもどうせ2万は払うので。

問題は金額の多寡ではなく,去り際にお金を要求してくるお稽古事の教室など,真っ当ではありません。

 

ヨウさんとお会いしました、まとめ。

 

先月のズイショさん(id:zuiji_zuisho)だけでも胸一杯でしたが、ヨウさん(id:fahrenheitize)ともお会いしました。昔からキレッキレのチャラい人とは全く縁が無いんですけど、随分昔に変な奴がゲリラ豪雨的に通り過ぎたことがあって、パッと見爽やかだけど女の子が好きな人は、一番厄介と思っていたというか、過剰に苦手意識があったんです。(だから女の影が無さそうな人に好意的なのかもしれませんが。) ヨウさんの場合は、事前にご著書やブログで両方の側面を拝見してたので、拒否反応などもなく安心してお話できて楽しかったです。つまり爽やかな気のいい好青年でした、ということです笑

 

 

これは有名な茶人たちも言われたことないでしょうからね。一気に抜きん出ることができて嬉しいです。ヨウさんがいかに「天才恋愛コラムニスト」であるか分かったところで、ヨウさんに「伝統文化ファックみたいな人ですか」と訊かれたんですが、「そんなことは全くありません。」とワンクッション置かなくてはいけない風潮そのものはファッキンです。

自由なお茶を批判することは自己否定でしかないけれど、かといって伝統の否定の上に成り立っている自分でもない。私が毎日点てているお茶は、私のスタイルを見たときの反応でその人のスタンスを窺い知ることのできる、議論のための叩き台である。

 

上の記事にも書いたように、私のスタンスは吹奏楽部の顧問の受け売りで「サックスとクラリネットの違いも分からんようなやつを感動させることに意味があんねん!!!!!」である。もともとお茶に関心のある人達が「お茶っていいよね〜」と身を寄せ合って、それに興味を持つ(つまりもともと親和性の高い)人が寄ってくるような集まりは楽しいけど、もう充分過ぎるほど誰かがやってる。

私のすべきことはきっと、お茶に縁遠い人が何か思うお茶をすることだ。既に茶道が大好きだったり、遅かれ早かれ茶道教室に通ってただろうなっていう人達に浸かってお茶をするのは、方向性が違うように感じている。

 

上でも言ったように私のお茶は叩き台なので、人を饒舌にさせたり寡黙にさせたり、何かしらの契機になればそれ以上のことはない。押しつけがましくない形でありたいし、例えばグループやコミュニティの中に、一人「茶人キャラ」がいるなぐらいの認識でいてもらった方が、私にとって違和感がない。

みたいな私の個人的な話や、何やら真面目な話をヨウさんとしていました。話を合わせてくださったんだと思います。見た目爽やかな方と久々にお話する上で、ヨウさん以上に適した方はいなかったのでは。

 

唐突に毎日点て始めたときは、ズイショさんやヨウさんにお茶を点てるだろうなんて、当然だけど全く想像していない訳です、点て始める前から存じ上げていたとはいえ。でも結果としては、あのときお茶を点て始めていなければ、ズイショさんと宇治で会ったりヨウさんと野点してたりしてないということは、かなり確実に言える。

描きたい将来を描こうとする度に全く違う絵が浮かび上がる自分にとって、「これをするとこんな意味があるのだろう」なんて期待は全くできない。でももう臆病になって無理に意味を与えたり、大丈夫だと請け負ってもらいたがったりしなくていいのだと思う。良くも悪くも、確実なのは振り返ったときにそこにあるもの。そして今手元に残っているものは、もっと確実なもの。ようやく後ろを前向きに振り返ることができるようになったのだと思う。

元気になった状態の自分でお会いできて良かったです。

 

 

「あの点「,」はなんなの」と言われたので,初めて「、」で書いてみました。しかし無意識に「,」に変換しちゃってるので逆に「、」に戻すという三度手間を踏んでしまい,訳わからなかったです笑 この記事を書き終わった後,教えてもらった通りにキーボードの設定を変えてみたので,引き続き「,」で書いてみます。