それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

私も「茶人」であるということ。

zuisho.hatenadiary.jp

上の記事で「365日お茶を点て続けるガチの茶人」と言及されたものの,ほんの先日「お点前の意味*1を分かってない人はお茶人だと思ってないんすよ」と面と向って言われたばかりである。しかしジョージ・クレインか誰かが「自分がなりたいと思っているような人間に,既になったかのように行動せよ。間もなく必ずそうなる」と言っていたように,今から茶人だと思って点てた方が結果的には近づけるのでは,と思って茶人を名乗っている次第です。

確かに茶人として何をした訳でもない。ただしズイショさんが書いてくださってるように,お会いしたことの無かった方でも,お茶を点てるときに私の存在が頭をかすめてしまったり,一日に一回タイムラインにお茶が流れてくるという長期的な激ゆるサブリミナル効果によって抹茶が気にかかるようになってしまったり,という間接的な影響はありえるかもしれない。お茶はいいですよ〜なんて言うでもなくただ点て続け,「お茶うまいな」と思わせるよりある意味難度の高い,「ようし俺も頑張ればこれくらいうまい茶を点てられる」と思わせられるタイプの「茶人」です。私は。

 

俺もお茶をやる人なのかなぁと思って、ならば俺も少しは茶のことを考えねばならんのかなぁという気がしてきたのだけど、今、俺が誰かに「あなたは、なぜ、お茶を点てて飲むのですか?」と聞かれたとしたら、「俺がお茶を点てて飲むことになにか文句でもあるのかこの野郎!!」としか言いようがない。ので、もう少し考えます。

ふつうの京都デート日記。二。お茶講座ほか。 - ←ズイショ→

「あなたはなぜお茶を点てて飲むのですか?」というのは,ある程度の茶人にとっては「なぜあなたは日本人なのですか?」ぐらいの質問である。「数ある嗜みの中でなぜお茶なのですか」という質問は「数ある国の中からなぜ日本人に生まれたのですか?」という質問と同列であり,訊かれても「気づいたらこうだった」「こうなるべくしてなった」としか言えない。気づいたところで大半の人は,すぐさま日本人を辞めることはないし,日本人であることを前提に生きていく。それと同じことで,お前は茶人じゃないと言われても,お茶を辞めるという選択肢は(少なくとも今は)選べない。

現代人がお茶をする契機なんて「Twitterのタイムラインに毎日お茶が流れてきて」「なんか自称茶人がいて自分もできるかと思って」ぐらいのものかもしれない。そこから続くことだって,あってもいい。人間は出逢ったものしか愛することはできないけど,出逢ったからといって愛せるわけではない。そうすると出逢ったものの中でなぜお茶が残ったのか,ということが知りたい訳で,きっと「あなたはお茶で何がしたいのですか?」「お茶をして何が分かったのですか?」という問いのほうが「お茶をする」ことについて考えることできるんだろうな。

ただ,ズイショさんはさすがもう辿り着いていらっしゃるなと思ったんですが,私だとあと3〜4巡は思考を巡らさないと出ない答えを既に出されてるんですよ,「俺がお茶を点てて飲むことになにか文句でもあるのかこの野郎!!」って。

私も冒頭の「お茶人だと思ってないんすよ」の人に言えば良かった。「私がお茶を点てて飲むことになにか文句でもあるのかバカ野郎この野郎!!」と。以上です。

 

抹茶サブリミナル効果,こちらから試せます。

 

2016/08/15 18:48追記

なぜこの動作をするのか分からずに茶道の先生に言われたからというだけでお点前をするのは,茶人という以前に茶道をする人として意味がないのは同意です。私が毎日点ててるのは,限りなく簡略化されすぎて道具も最小限で,点前らしい点前ではないことも分かっています(それが後ろめたさでもありました)。私の思考が3〜4巡して「文句あるのか」と言い出すよりもっと前に「点前の意味を考える,知る」というフェーズが不可避だということは,今の私でも思います。

 

*1:お客のためにこうする,といったレベルでなく,なぜ釜が左で水指が右か,どうして最初茶碗と棗がペアなのか,という踏み込んだレベルのお話でした

一碗と一人をめぐる話。

 

8日間ほどの北欧滞在,メインの目的は夏用のガラス茶碗を買うことだった。

ストックホルムの街でSWEDISH DESIGNの文字を見つけて,入ったお店で見つけたのはこちらの金と青の冴えた器。

https://www.instagram.com/p/BIFdMd2jejF/

小さなカップ,2番目に小さなボウル,大きめサイズの皿が3種の形状で,5つの大きさがある中,平茶碗サイズだったのは2番目に小さいこのボウルだった。しかしそれには中に丸いキャンドルが置かれてディスプレイされている。キャンドルホルダーなのか?

「キャンドル用→火に強い→熱いもの大丈夫→多分お湯OK→茶碗」と思考を巡らしていた不審な日本人に対し,若い男性店員が声をかけてきた。あ〜大丈夫ですとその場は応えたが,この透ける器,有田焼のエッグシェルを想起させる。

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エッグシェル(左)と,器が小さいのか手がでかいのか不明な参照写真(右)

 

やっぱり気になる,先ほどの店員さんを呼び止めた。これはキャンドル用ですか?熱とかお湯には強い?「ん〜何にでも使えるよ,食洗機は駄目だけど手で洗えば,水とかお湯とかは気にしなくて大丈夫」。茶碗として使われることを全く想定していない回答が返ってきた(当然)。「これはスウェーデンの作家の中でも,ゴールドのマジシャンって呼ばれてる人が作ったもの」色違いはありますか?「こっちに黒とシルバーの2色のがあって,これは黒のマジックだね。」色々あるんやな…「小さいサイズなら青とゴールド,大きいサイズなら黒のが良いと思う。これは単に僕の好みだけど。」確かに大きい器でこの金色は存在感がありすぎるので,なかなか侘びた感性の若者である。

茶碗は箱書きが大事なので*1,箱はありますかと訊くと店員さんはごそごそと店の奥から箱を見つけてきて「Actually this is the last one, but you're lucly, そんだけ欲しかったから手に入ったんだよ」と言い,現品しかないこともモノは言いようだった。

布で綺麗に何度も磨いて「as good as new! (新品同様だよ!)」という店員さんにきゅんとしつつ,器に惚れたのやら店員さんに惚れたのやら,ようやく連れて帰ってきたスウェーデンの器。

それぞれの茶碗にとって,個人的に箱書き以上に重要なのはそれ自体の持つ歴史だ。4月に一緒に茶会をしたタイ人の女性が「each tea bowl has their own story」と仰っててまさしくその通りだと思ったけれど,茶碗には背景があってほしい。もともとの茶碗のいきさつに加え,私が毎日お茶を撮る度に,一つひとつの茶碗に背景が刻まれていく。このとき茶碗の持つストーリーとは,そのまま私の生きた毎日のことだ。

自分の撮りためたお茶の写真を人に見せた後など,「あぁこんなのお茶じゃないと思われたかな」などと,自信のなさはまずお茶への不安として表れる。そんなときに思うのは,誰かが今の私と全く同じことをしていて,自分がそれをしていなかったら,「いい生活だな(皮肉っぽい)」とか「先を越されたな」と思うだろうということ。

実際には,毎日お茶を点てるぐらいのことは何番煎じか分からないけど,偉大な誰かや頑張ってる人にどう思われるのかを憂うより,「こう生きてる自分」と「この生き方をしてない自分」を比べてた方が,ただ落ち込むだけではない解が生まれると思うのだ。お茶なんて点てていなかった頃より,茶碗にストーリーが増えていく日々の方が好きなら,お茶に自信を失くす必要など本当は無いのだろう。

今の自分そのものはさておいて,そうやって増えてきたストーリーを,私は結構気に入っている。

 

*1:誰が作った茶器で銘は○○,とかいう情報が書いてある桐の箱こそが茶碗の価値,みたいな価値観が茶道の世界にはある。

誰と,どこで,〈お茶〉をするか。

 

日本語教師を終えて帰国した直後にこんなことを書いていた。もう3年以上も前だ。昔の私いわく,「未来を構成する要素は,誰と,どこで,何をするかの3つだけ」とのこと。


適当に誰かといることも,とりあえずどこかに存在することもできるし,何もしないでいることもできる。この記事を書いた頃に驚いたのが,誰とどこで何をしたいかを考えたとき,そのうちの一つも当時叶っていなかったことだ。そして即決したのは,そのときいた人と場所を離れることだった。それらの決断を後悔するタイミングは,少なくともこの3年強の中では一度もなかった。

 

その後,感銘を受けた本がことごとく茶の本であったため,自然と茶の道の深みに嵌っていく運びとなり,卒論執筆の際に参考文献として大いに参照した著者の先生は,現在の指導教官である。英語をしながら茶の道を邁進していたら,今の院にいる。

その指導教官が,留学相談に来た学生に話していたのは,以下のようなものだった。

やりたい学問と行きたい国が一致するまで行かなければいい。どうしても一致しない場合,優先するなら国よりも学問だ。「自分はなぜここにいるのか」,苦しい時,その答えをくれるのは国ではなくやっている内容だからだ。

私はもう分かっている。

「人」も,「自分がなぜここにいるのか」の答えをくれるし,答えになりえるということを。

 

自分が最初に描いていた場所にはいつも行けていないし,「どこで」に限らず「誰と」の部分だって,近しい人,仲良くもない人,あらゆる関係において,Trial and error, error and errorという日々が続いていた。
たとえあらゆることがうまくいかなかったとしても,「何をするか」の部分だけは叶っており,お茶が中心の生活を送ることができている。指導教官の言う通り,「やっている内容」がやりたい内容であることは,何よりも優先すべきなのだ。

こうして毎日お茶漬けの日々を送っていると,留学せずに日本にいて良かった,と表現することもできる。日本を味わい尽くすかのようにお茶まみれの生活をしているのは,日本にいることを正当化してるかのようだ。
ただ,仮に留学していても同様に「日本に残らなくて良かった」と思ってる気がするのは,結局どこにいても,そこにいることが最善の選択だったかのように行動するしかないからだろう。

選択を後悔したことはないけれど,自分のした選択を後追いで納得する形でしか,自分が幸せだと思えていなかった。

でも多分それでいい。納得できないより幾分もいい。