それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

誰と,どこで,〈お茶〉をするか。

 

日本語教師を終えて帰国した直後にこんなことを書いていた。もう3年以上も前だ。昔の私いわく,「未来を構成する要素は,誰と,どこで,何をするかの3つだけ」とのこと。


適当に誰かといることも,とりあえずどこかに存在することもできるし,何もしないでいることもできる。この記事を書いた頃に驚いたのが,誰とどこで何をしたいかを考えたとき,そのうちの一つも当時叶っていなかったことだ。そして即決したのは,そのときいた人と場所を離れることだった。それらの決断を後悔するタイミングは,少なくともこの3年強の中では一度もなかった。

 

その後,感銘を受けた本がことごとく茶の本であったため,自然と茶の道の深みに嵌っていく運びとなり,卒論執筆の際に参考文献として大いに参照した著者の先生は,現在の指導教官である。英語をしながら茶の道を邁進していたら,今の院にいる。

その指導教官が,留学相談に来た学生に話していたのは,以下のようなものだった。

やりたい学問と行きたい国が一致するまで行かなければいい。どうしても一致しない場合,優先するなら国よりも学問だ。「自分はなぜここにいるのか」,苦しい時,その答えをくれるのは国ではなくやっている内容だからだ。

私はもう分かっている。

「人」も,「自分がなぜここにいるのか」の答えをくれるし,答えになりえるということを。

 

自分が最初に描いていた場所にはいつも行けていないし,「どこで」に限らず「誰と」の部分だって,近しい人,仲良くもない人,あらゆる関係において,Trial and error, error and errorという日々が続いていた。
たとえあらゆることがうまくいかなかったとしても,「何をするか」の部分だけは叶っており,お茶が中心の生活を送ることができている。指導教官の言う通り,「やっている内容」がやりたい内容であることは,何よりも優先すべきなのだ。

こうして毎日お茶漬けの日々を送っていると,留学せずに日本にいて良かった,と表現することもできる。日本を味わい尽くすかのようにお茶まみれの生活をしているのは,日本にいることを正当化してるかのようだ。
ただ,仮に留学していても同様に「日本に残らなくて良かった」と思ってる気がするのは,結局どこにいても,そこにいることが最善の選択だったかのように行動するしかないからだろう。

選択を後悔したことはないけれど,自分のした選択を後追いで納得する形でしか,自分が幸せだと思えていなかった。

でも多分それでいい。納得できないより幾分もいい。