それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

「自分は幸せに違いない」という幸せバイアス。

 

英中辞典で調べてもピンとこなかったらしく,中国人の友達が「バイアス(bias)って何?」って訊いてきた。

例えば,「ある人がとてもかっこいいので,彼はいい人に違いない」とか「自分の彼氏は他人の彼氏よりかっこよく見える」とか…って説明して,「誤解すること?」って訊かれたので,ある物事を間違って見るというか,事実と違うように思うというか…って答えたところで,ふと疑問が湧く。

かっこいいからっていうのは根拠にはなり得ないだけで,その人は本当にいい人なのかもしれない。ある人は本当に他の人の彼氏よりかっこいい彼氏と付き合ってるのかもしれない。いい人とかかっこいいっていうのは主観で,誰かにとっては全然かっこよくないかもしれないけど,Aさんをかっこいいと思う人が無作為抽出の100人中50人,Bさんの場合は40人,みたいな比較は可能なんだと思う。そう考えると,イケメンバイアスや身内バイアスがかかっていても事実を述べている人は存在し得るので,「バイアス=嘘・誤解」って結びつけられない気がした。

上記の例みたいに,他人が絡む事柄ならある程度真偽が確かめられるけど,例えば「私は強運に違いない」みたいなバイアスで世界を見てる人は,些細な出来事も「強運のおかげ」になってしまい,自身の強運の根拠が増えていく一方である。同じような些細な出来事にあった人も他にいるだろうけど,その人達と比較することもおそらく難しい。他の人達は,些細な出来事が起こったとしても強運や自分のおかげだと考えるとは限らないからだ。

そう考えると,客観的に嘘だと分かるようなバイアスでない限り,さらにいうと他人に影響を及ぼすようなバイアスでない限り,バイアスは誤解でも偏見でもないことになる。もちろん,バイアスっていうのは自分が自分以外の事象を見る時に生じることなので,多くの場合は周りに影響があるんだけれど。

 

 

最近頻繁に思うのは,「幸せ」も主観だということ。

前から思っているのは,幸せな人って自分を幸せだと思ってる人のことだということ。

 

上の例で言えば,幸せな人っていうのは「自分は幸せに違いない」みたいな幸せバイアスで世界を見ている人のことだ。同じぐらい恵まれた環境の2人がいたとして,一人は幸せバイアスがかかっていて,もう片方は客観的に現状を見ていたとする。完璧なんてあり得ないので,人生に客観的であればあるほど不備は見つかる。そうすると,不備の多寡を考えてたらいつまでも自分が幸せかどうかなんて結論は出ない。2人とも同じぐらいの不備を抱えていたとしても,「幸せに違いない」というバイアスで人生を見ている人は,とりあえず「自分は幸せだ」っていう結論が出ていることになる。

今生きている状況で自分が幸せかどうか決まってるんじゃなくて,自分が現状を幸せだと認識しない限り,幸せになり得ない。

 

客観的に見て「自分が幸せである」っていうのは嘘かもしれないし,幸せバイアスがかかってる人を見て他人が不快になるかもしれない。こういうときのバイアスは悪しきものなのかもしれない。でも幸せバイアスの構造自体は,一人の頭の中で完結してるのだ。私が「気分」と呼んだ「幸福」は,他人とか外的な出来事によっていとも簡単に「不機嫌」にされ「不幸」になる。それは確かだけど,誰かに「あなたは客観的に見て幸せですね」って言われて幸せになるものでもなく,自分を幸せだと認めるのに他人の許可はいらない。そう考えると,幸せバイアスは他人を介在していない,他人に影響を与えないバイアスなのだ。

 

ここまで話してきたけど実を言うと,私は幸せバイアスがかかっている人間がとても苦手だ。この人は私を引っ捕まえて幸せ自慢を聞いてほしいのだろうかとか,この人はたくさん不備があるくせになんで幸せだと思えてるんだろうと,ずっと思ってきた。幸せバイアスがかかってる人間に不快になってた側だったけど,そんな私も誰かに「この人はたくさん不備があるくせに」と思われてるかもしれない。だから,幸せバイアス人間でいることで誰かを不快にさせてるかもなんて,考えなくていいのだ。そして,「それだけ不備があって,客観的に見てあなた幸せじゃないでしょ」と思うことをやめた。幸せかどうかっていう議論は自分自身についてのみ,自分の頭の中だけで完結していればいい。誰も,他人が幸せかどうか話題にしなくていい,誰にも決められない。

究極的には「誰が何と言おうと幸せに違いない」って思うことでしか幸せになれないのだろうかと思索しながら,試験的に幸せバイアスを試して生きてみる。

 

 

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