それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

目標が達成されない場合の話。

 

こんなに頑張ってるのにって,「のに」って言ってる時点で全然達成されてないし,「こんなに」っていうのも当方の目方なのでアテにならない。「こんなに頑張ってるのに」なんて,脳内の無駄な文字列だなと思っている。そうして「こんなに」とも「のに」とも思わない範囲で「頑張って」いた自分は,”叶えようと思ったこと"は何も叶えることができていないなあと思う。

代わりに何を得たとか,どう幸せだったかなんて話は,過去にも書いてたと思うから省くとして。

 

 

何も成し得てないくせに「幸せだ」って言ってるだけの自分はとても嫌だ。ただし,言ってるだけになりたくないからする頑張りは,「こんなに頑張ってるのに」にしか繫がらない。

 

私の場合は最初から希望していた進路を選べたことが一回もなく,たいてい自分はその事実はさておき*1,行った先で予想もつかない形で楽しさを感じているに過ぎなかった。望んでいたものが叶わなかったからといって,もうそれ以上何も頑張らなくていいかといえばそんなことは全くなく,引き続き,もしくはもっと頑張らなくてはいけないことになった。叶わなかったという事実は,もう頑張らなくていい理由にはならなかった。

 

 

意味があると思わない限り意味なんてないと思っている自分にとって,無為に見えるもの(人生とか)に意味を見出さない限り,価値のあるソレにはならないのだと思っていた。そして,ただ生きているだけの存在の自分も,周りに幸せにしてもらったり自分で勝手に楽しいと思ったりして意味を感じるときもある。これこそが幸せです,と言い切れないんだから,本人が幸せだと思った状態が幸せであるとしか言えない。

ただ,それは「何も叶っていない人生」に「幸せだ」と言ってるだけなのかもしれないな。あらゆるものに当てはめてきた意味づけ理論って,そこまで虚しいものなんだろうか。

 

それでも,叶えることでしか幸せにならない人は,幸せになるかならないかの二択しかないだろう。叶えることができる人はもちろん立派なんだけど,叶わない場合も幸せになれるんだったら何をしてても幸せってことだよなっていうだけの話。自分みたいな「望んでいる形で叶える能力が欠落してる人間」には,ことさら意味づけ理論が必要なのだと思った。

 

 

なんで叶えられないかというと,途中で目的を変えてしまうからだと思う。叶うことだけが目的だったときでも,いざ叶えることを諦めるかどうか判断しなきゃいけない段階になると,自分が本当にありたい状態ってなんなんだろうとか考え出すのがよくない。周りの人間に幸せにしてもらっていたように,自分の立てた目標に将来幸せにしてもらうことを期待して努力してきた上で,目標とは直接関係ないところでも幸せでいられる方法を選ぶべきじゃないか,と思い出すのだ。この「目標とは直接関係ないところでも幸せでいられる方法」は,目標を叶えるのと同じぐらいの労力が必要かもしれなくても。

ただ,叶えることだけにこだわり続けた場合に,叶わなければ不幸せになるしかないのだろうか,と思ってしまうあたり,叶わなくても今幸せだ(楽という意味ではない)と思える判断をしてしまう。こだわるというのは,幸せや成功の形を一つに決めることとも言い換えられるかもしれない。もしくは,将来の幸せを期待するという判断ができないということだろうか。

 

もし私の小さい脳内で願ったことしか叶わなかったら,とても偏狭な人生になってしまうと思う。足りない想像力は,自分よりも大きい世界に委ねることで補っている。

叶えようと思った願い事って,私なんかにも思いつくことのできた目標っていう意味ではとても小さく思えてしまったり,その大きさに関わらず難しかったりする。目標の立て方が適切でないんだろう。

 

 

叶う叶わないの二項対立の話を散々したところで,

「目標を達成して得るものよりも,目標を達成することであなたが何になるかのほうが重要だ」

というゲーテの言葉に,この記事の骨子は持っていかれるので,以上です。

 

 

*1:高校時代なんかは3年間引きずってたけど