それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活のなかで,考えたこと。

もっとたくさんの人を愛せば良かった。

 

店員さんと話してたときに「話さなかったら可愛いのにギャップありますね」と言われた。なんて失礼な,と思いながら「よく言われます。”黙ってろ”って」と返答する。

同じ学科の友達数人にその話をすると「喋らなかったらただの近寄りづらいお姉さんだよ」「絶対そんなたくさん友達いないよ?」とか言われた。

学科での存在感は限りなく薄いんだけど,あたしにはたくさん友達がいるだろうか?学科の子がそう言ったこと自体おもしろすぎる。他学部とか先輩とか,あたしの人間関係をその子が把握してる訳ではないだろう。人は虚像(イメージ)を生きているのだ。

 

 

人は虚像を生きている。実際よりも大きく見えたり小さく見えたり。予想より多くの評価を受けることもあるし,そうやって取りとめの無い話をする友達が学科にもいるくらいには「友達」に困っていない。友達って誰のことだと思う?

 

例えば自分の進路が人に言えるようなものでなかった場合,あたしは誰にそれを言えるだろう。非常にコメントに困る結果を相手に押し付けて,慰めてもらうんだろうか?あたしが考えなきゃいけないのは,うまくいかなかったときにそれを話せる相手だ。

 

だけど,そういうとき本物の人間関係が問われますねなんて話を,今したいのではない。

 

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「話す相手が誰か」も大きな問題だけど,「人に言えるようなものではない」結果かどうかというのは,相手ではなく自分が判断することだ。人にどう思われても良ければ,誰にでも真実を伝えられる。でも,変な風に話が広まったり,頑張ってた過程も知らない人に結果だけ伝わったりするのが嫌なら,途端に何も言えなくなる。これはあたし自身の問題なのだ。

うまくいってる部分だけを人に見せてきた訳でもないけれど,人は虚像を生きているので実物大で伝わらないこともある。うまくいかない部分も合わせてあたしの「人生の醍醐味」みたいなところはあるんだけど,実際以上にうまくいっていないように受け取られるかもしれない。この1年間あたしがどう楽しかったかなんて,計り知れないのだ。

 

そういった実物大でないあたしを見てる人なんて,まっっったく重要じゃない。「虚像でないあたし」を知ってる人は確実に存在して,それは数人どころじゃない。あたしはその人たちにこそ会わなきゃいけないし,あたしの惨状に対して相手がコメントに窮するようなら,自分で伝えなきゃいけない。

 

「あたしには自分の人生を楽しくできるだけの最低限の能力がある。

かつ,あたしの人生を楽しくしてくれるあなたがいる。

だから大丈夫です」と。

  

 

それを伝えられる人間が,世界にどれだけいるだろう。

あたしが友達について論じるとき,相手にどうこうなって欲しいわけじゃない。後悔は自分に向いている。とても仲のいい人とそうでない人,あまりにも濃淡がありすぎた。人間関係は数ではないことを十二分に分かっていて,あえて言う。

 

 

もっとたくさんの人を愛せばよかった。

 

 

もう少し多くの人に自分を曝け出しても,良かったんじゃないのかな。

 

 

 

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