歳をとったら,歳をとったなりの幸せがあるだけ。
うまくいくか分からないことや人に関わるのは「若いのに」時間がもったいないかもしれないけど,中年になったら中年なりに幸せだろう。
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年5月11日
ヨボヨボになるまで続く幸せに加えて,今日起こったことも来年起こることも,その時々なりの幸せだと思う。https://t.co/MLr43WKidP pic.twitter.com/OCSdIUDIai
そんなことが浮かんで,今日は値段が高い方の抹茶で点てると,ぶわっと香りが突き抜ける。「お茶点てられて幸せだな」と思うと同時に何か込み上げて,鼻が詰まって,お茶の香りが分からなくなった。
あ,これが「今」の瞬間の幸せだったんだ。と身体が先に納得する。
*
若いときにしか起こらない幸せが存在するのではなく,今日は今日なりの幸せを生きて,明日もきっとそうなんだろう。
叶わなかった願いや,予想外でしかない出来事は腐るほどあっても,「私はこうなるはずだったのに!」なんて一度も思わずに済んできた。
今していることが一生続けば成功なのではなくて,続かなくても失敗しても,その時々で正しいことが起こっている。それを当たり前に信じられるのなら,毎秒を圧倒的に肯定する在り方しかあり得ない。
起こっていない未来や,起こらなかった過去については考えが及ばないので,起こっていることの正しさを味わう以外に,幸せでいられる方法を,私は知らない。
原宿の母に会ってきた。
偶然前を通りかかったので,原宿の母に占ってもらった。
地元から来ていた友達が先に占ってもらい,私の番になるやいなや「結婚までにあと5から10人」と言われ吹き出した。
原宿の母いわく「あなた成長のスピードが早いから,すぐに男がついていけなくなっちゃうのよ」とのこと。そんな意識高い人に見えますか?未だに?
拾い物の画像。(すみません)
私「5人から10人出逢っても,結局どこにも落ち着かなかったら嫌ですね」
母「30歳過ぎてから,ちゃんと結婚できます」
私「その人には30過ぎてから出逢うんですか?」
母「はい」
私「じゃあそれまで,5から10人全部ハズレですか?」
母「はい。冬から来年の春にかけて一人現れそう」
私「でもそれハズレですよね?」
母「はい」
爆笑した。結婚するまでにまだ10人近く見ることのできる人生,聞いただけで楽しそうだと私の性格では思った。別にその全員と付き合うって言われた訳でもないし,良さげな人10人ぐらいは,これから全然出逢うだろうなと思った。
原宿の母は私の手を見た(手を出した)瞬間に「あんた男の3~4倍働くから,その人はあなたを頼るでしょうね」とも言っていた。今の人はダメだと言われれば,大半の女子は反発するだろう。今好きな人を信じたいだろうから。原宿の母は「今はアツアツだろうけど,そのうち物足りなくなるわ」と何度も言っていたけど,私の口から出たのは「じゃあ付き合っても無駄ですか?」だった。「無駄でしょうね」と言われた。
いい人だけど結婚に至らない人が,今後5年の間に10人ぐらい現れて,どんな球が飛んで来ても全部本気で振り切らなくていいし,大半を見逃したっていいとしたら。付き合ってみて別れたとしても,特にダメージなんてないだろう。
もし仮にそうなら,日本語が変だけど,30歳まであと5年が余生のように感じた。
そしてさらに恐ろしいのは,今ここに書いたこと,つまり,死ぬほど好きとかにはならず,別れても別に悲しくはない関係は,占いが示す「未来」ではなく「過去」5年間の自分だった。
つまり,占いの内容が当たる/当たらないの問題ではなく,もう既に起こってきたことだったのだ。
結婚がとりあえずのゴールなら,結婚しなかった関係に意味はなかったのか。
人を好きになることに人生の妙味があるのなら,嫌いになってしまった人には意味がないのか。
結婚に至るか/至らないかでジャッジして,終わった関係を時間の無駄だったと片付けるのか。過去の関係はそれでいいと思うけど(いいのか),今後もそれを繰り返すのか。
その人とうまくいくかどうかなんて,私自身が一番肌身で感じてしまうところだ。誰に何を言われなくても,終わるものは終わると,過去の経験からわかっている。今の自分にとって大事なのは「終わらせたいか/終わらせたくないか」なのだろう。
「終わってしまう/しまった関係に意味があるのか」という不毛感の中を生き続けるより,目の前のあらゆるものを「意味のあるものにしていく」努力が,今後の課題に思えた。
珍しく「お茶より大事にできるかもしれない」気がした人を受け流したら,私はまた,飛んで来た球を全力で打ち返さない人生になってしまうだろうな。逆に,球を全力で打ち返そう,むしろこっちから投げてやろうと思えるのなら,それだけでも私の人生の中で意味があるのだろう。いつの間にか好きならともかく,好きになろう,という努力は不毛に終わることが多いので,「全力で打ち返さなきゃ」と思うことに意味はないのだが。(どうしたらいいんだ)
*
一緒に占いをしてもらったその友達とは,私の初恋の頃からの付き合いだった。正確には初恋ではないけど,それまでの「好き」なんてカウントしたくないほどの出逢いが12歳であったから,私の初恋は12歳のときということになっている。私はたまに,合理化の鬼みたいになるのだ。
あれから,2回目3回目にカウントしたいような恋はできていただろうか。
2人で占いの内容を咀嚼しながら,「30歳になったら答え合わせしよう」と言いながら帰った。
「毎日の」お茶を,やめよう。
(うまく説明できないけど,中の人はこんな感じで毎日自宅や屋外でお茶を点てています)
私のお茶は,自宅で急に点て始めたあの瞬間から,
あれから丸3年と2ヶ月,意味のあることだから3年以上続いたん
数日前に人と話をしていて,
(お茶や茶道教室にまつわる悩みに関しては過去にも話している。お茶環境には全く恵まれなかった)
割と長い時間をお茶と過ごしてきて,なお「
そこまでして,
プライベートも論文も,学部3年の頃からお茶漬けだったから,今辞めても続けても
答えがYESでもNOでも,こんな自問自答をしてる時点でもう,続けていられない。
例えばだけど,もし一度「毎日お茶を点ててる」人としての評価を得てしまえば,
でも,うまくいかないことには理由がある。評価されていないことより何
お茶っていうのは,下心が出た瞬間にダサくなるのだ。
でも,何がしたいのかも分からず,
口腔外科手術の入院中も当日も,2週間の教育実習中も,
でも,辛い時も一緒にいたからという理由で,
一緒にいて幸せなものを,随時選択し続けていくことの方が,
一人で点て続けずに人に振る舞ったりすれば,
*
人間関係でいうと,人を多少好きになっては嫌いになってを過去に繰り返してきたけど,
距離が遠ければ,
茶道を始めた最初の頃から,
論文はあと2ヶ月ぐらい,
最後の最後まで,論文としてお茶と向き合いきってから,蟠りなく
2016/08/13 もう茶碗の写真なぞ無くとも,お茶をいただいてたことは伝わるかと。あと大徳寺は樹液がすごい(4枚目)。
— あまんじるな (@amnjrn) 2016年8月15日
私が楽しいと思って生きてることを示すのに,もう茶碗すら写す必要もないのだと思う。毎日のお茶も過渡期かな。 pic.twitter.com/bHOh9u74UZ
しばらく前から,私の理想は「無茶の茶」だった。お茶がなくても茶であるような人間になりたかった。茶道を習ってもないのに茶の本を書いたような,岡倉天心みたいに。この話は長いから割愛。
もし最後になってしまうならインスタも載せておきます。こっちはtwitterより始めたの遅い。
追記。
拙作の花瓶見てたら使いたくなって,近所で摘んできた。
— あまんじるな (@amnjrn) 2017年3月25日
3年以上欠かさなかったから執着してたけど,毎日お茶飲んでSNSにアップしてたら茶人だなんて,馬鹿げた定義だ。
今の自分に満足してないなら,お茶との付き合い方を変える時期。人間としても「毎日お茶してる人」以上の段階に移りたい。 pic.twitter.com/pXuNEVgTT9