それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

茶道教室を辞めます。

茶道教室に向かう道中ではよく事故に遭う。その日も結構高かった服が痛んだまま教室に着くと,来年の話をされた。通っている教室では,1月から半年以内に辞める人は,初釜(新年1回目の茶事)には出られないことになっている。なんでも初釜は「今年も一年よろしくお願いいたします」という意味の茶会だからだそう。初釜には参加してもしなくても,費用を払わなければいけないことになっており,留学や引っ越しで辞めることが分かっている人は,ギリギリまで通うのではなく年内に辞めるのが一番スマートなのである。

事故って満身創痍の身体は反射的に「お初釜は出ない方がいいかと思うのですが…」と答えた。最長でも6月末には卒業して引っ越さなければいけない。その手前に修論の締切,遠方へのフィールドワーク等々が控えており,欠席せざるをえないことも増える。これでも休まずに通ったが,フィールドワークで一ヶ月丸々休んだときでも,もちろん月謝は支払ってきた。今後通えなくなるので辞める旨を伝えたら,出席する人数が減るのは困るから初釜までは出てほしいとのこと。そんなに他の方も辞めてるんですか?と訊けばよかった。それが8月の下旬のこと。

 

「伝統的」な教室はこうなのか? 地方でお茶を習っている人達とお話をした。私が通っている教室みたいな形式もあり得るのかもしれないと,控えめに「うちは辞めるときに2万払うことになってますね」と言うと,「極道」と言われた。入門の際に「学生は続かないから」とかなり断定的に言われたので,1年は続けた。地方の方々は「みんな都合があるんだから,それ(誰々は続かないとか)は先生が言っちゃ駄目だよ」と言った。

 

地方から帰ってきて,月謝は払ってあるので,引き続きその教室にお稽古に行く。

「そろそろ次のお免状(ここまでのレベルの点前を習ってもいいですよっていう免許みたいなやつ)の時期になりましたので」と申請料とお礼,お菓子料はいくらですと説明される。もう辞めるって話をしたはずだ。「お免状が届くのはいつですか?」と尋ねる。前回のお免状は忘れた頃に届いたからだ。引っ越すこともあって辞めるのに。言いたいことは半分伝わったのか,「実家の住所を届け先として書いてください」と言われる。

伝えられなかった半分は,お免状なんていらんねやあんな紙切れ,である。地方でお茶をされてる方々が「先生はこちらのタイミングを見てお免状の話をしてくださる,お金のかかることだしね」と仰っていたのが羨ましく思い出される。お免状の話をされてしまうと,もう拒否権が無く黙って払うしかないなんておかしい。

 

道教室の中のような〈お茶〉をイメージするとき,私はお茶が好きだとは言い切らない。

 

結果的に人を茶道から離れさせるようなお茶をする人達が,茶道の先生としてお茶で生計を立てているのが,一部の茶道界かもしれない。実際,私より後に入会した人で,今でも続けている人は誰もいない。

お茶を生活のための手段にしてしまったら,お茶を好きな人達からお金をとることになるのだ。だから,余裕のある先生はお茶以外に職を持っていたりする。それは都市部でも地方でも同じである。

 

 

地方で目上の方にご馳走になったとき,お礼を言うと,その方は「教室変わってもいいから。お茶を楽しく続けてくれれば,それでいいです。」と仰り,胸が詰まった。茶道同好会の中でも同じ温度の人を見つけられず,教室の見学や体験もさせてもらえないまま即入門することになった茶道教室は上記の通りで,置かれた環境で「お茶楽しいね」と言っていられる人が羨ましかった。

私は「お茶楽しいな」と言うために,こうして毎日家で(たいてい1人で)点てるほかなかった。嫌だからとすぐ辞められないものに巻かれながら,「楽しいな」と思える場所は自分でつくるしかなかったから,今のこのスタイルは生まれた。

楽しそうに集まって茶道をしてる方々を研究対象にしているけれど,そういう人達と方向性が違うなと感じるのは,人が集まることに楽しさを感じているというより,自分の中に楽しさを見つけるしかなかったからだろう。

 

お茶が好きだからとお茶業界に浸かることは,他のお茶好きな人がお客さんになることだ。

もっというと,お茶業界における顧客の大半は,そういう茶道教室を運営する側の人々である。そういう層の人を相手にしていたいのかどうか,20~30年後にその人達は存命か,そのときにお茶はあるのかを考えなくてはいけない。

茶道を研究対象にする研究者になることも,お茶で生計を立てている一員になることと同義である。別にペットボトルのお茶を売るとかならともかく,文化としてのお茶でビジネスなんて,とりわけ今はしたくない。

 

散々お茶漬けになった生活の中で出た結論は,お茶を好きでいるために茶道教室を辞めることであり,お茶を好きな人達やお茶業界の人達を顧客として見たくないから,茶道そのものを仕事にしないことだった。お茶を追い続けるのなら,就く職は逆にお茶に直接は関係ないものになるだろう。熱意は劣れど,興味は他にもいくらでもある。

 

札幌のお気に入りの陶芸家さんは私に「絶対お茶続けた方がいいよ」と言ってくださり,先週お会いした方は「そこまで言うなら一生続けるんだな」と仰り,地方でお会いしたうちの一人は「あまんじるなさん(私)から世界中の若い方々にお茶の良さがお伝え出来ますよう」と仰っていた。それぞれ全く違う文脈での話だ。

私が見てきたようなお茶が嫌いなら,今いる範囲で自分の好きなお茶をすることが最適解のように感じるし,度を超せば,時には茶道史をつくる側に回ってもいいのかもしれない。私も,このまま黙って去るつもりはない。こんなこと書いてるけど茶道の論文の締切は先だし,まだまだお茶と生きますよ。

 

数年先のことなんて知らないけど,とりあえず明日もお茶に取り組んでいると思う。自分の好きなお茶は,そこにしかないから。でも自分が点てている限り,そこに確実に存在してくれるものだと思っている。

  

もしこの記事でその教室が特定されるなら,そういうことをしてるのが周知の事実であるということでしょうし,もし当事者がお気づきになられるようなことがあれば,「自覚があるのなら控えたらどうですか?」と言うまでです。

私としては初釜どころか来月のお月謝も,相手に金額を指定されるお歳暮も支払いたくないので,この記事に気づいていただけたら逆に,これをきっかけにして今すぐ辞められるかなとも思ってます。どんな円満に退会してもどうせ2万は払うので。

問題は金額の多寡ではなく,去り際にお金を要求してくるお稽古事の教室など,真っ当ではありません。

 

ヨウさんとお会いしました、まとめ。

 

先月のズイショさん(id:zuiji_zuisho)だけでも胸一杯でしたが、ヨウさん(id:fahrenheitize)ともお会いしました。昔からキレッキレのチャラい人とは全く縁が無いんですけど、随分昔に変な奴がゲリラ豪雨的に通り過ぎたことがあって、パッと見爽やかだけど女の子が好きな人は、一番厄介と思っていたというか、過剰に苦手意識があったんです。(だから女の影が無さそうな人に好意的なのかもしれませんが。) ヨウさんの場合は、事前にご著書やブログで両方の側面を拝見してたので、拒否反応などもなく安心してお話できて楽しかったです。つまり爽やかな気のいい好青年でした、ということです笑

 

 

これは有名な茶人たちも言われたことないでしょうからね。一気に抜きん出ることができて嬉しいです。ヨウさんがいかに「天才恋愛コラムニスト」であるか分かったところで、ヨウさんに「伝統文化ファックみたいな人ですか」と訊かれたんですが、「そんなことは全くありません。」とワンクッション置かなくてはいけない風潮そのものはファッキンです。

自由なお茶を批判することは自己否定でしかないけれど、かといって伝統の否定の上に成り立っている自分でもない。私が毎日点てているお茶は、私のスタイルを見たときの反応でその人のスタンスを窺い知ることのできる、議論のための叩き台である。

 

上の記事にも書いたように、私のスタンスは吹奏楽部の顧問の受け売りで「サックスとクラリネットの違いも分からんようなやつを感動させることに意味があんねん!!!!!」である。もともとお茶に関心のある人達が「お茶っていいよね〜」と身を寄せ合って、それに興味を持つ(つまりもともと親和性の高い)人が寄ってくるような集まりは楽しいけど、もう充分過ぎるほど誰かがやってる。

私のすべきことはきっと、お茶に縁遠い人が何か思うお茶をすることだ。既に茶道が大好きだったり、遅かれ早かれ茶道教室に通ってただろうなっていう人達に浸かってお茶をするのは、方向性が違うように感じている。

 

上でも言ったように私のお茶は叩き台なので、人を饒舌にさせたり寡黙にさせたり、何かしらの契機になればそれ以上のことはない。押しつけがましくない形でありたいし、例えばグループやコミュニティの中に、一人「茶人キャラ」がいるなぐらいの認識でいてもらった方が、私にとって違和感がない。

みたいな私の個人的な話や、何やら真面目な話をヨウさんとしていました。話を合わせてくださったんだと思います。見た目爽やかな方と久々にお話する上で、ヨウさん以上に適した方はいなかったのでは。

 

唐突に毎日点て始めたときは、ズイショさんやヨウさんにお茶を点てるだろうなんて、当然だけど全く想像していない訳です、点て始める前から存じ上げていたとはいえ。でも結果としては、あのときお茶を点て始めていなければ、ズイショさんと宇治で会ったりヨウさんと野点してたりしてないということは、かなり確実に言える。

描きたい将来を描こうとする度に全く違う絵が浮かび上がる自分にとって、「これをするとこんな意味があるのだろう」なんて期待は全くできない。でももう臆病になって無理に意味を与えたり、大丈夫だと請け負ってもらいたがったりしなくていいのだと思う。良くも悪くも、確実なのは振り返ったときにそこにあるもの。そして今手元に残っているものは、もっと確実なもの。ようやく後ろを前向きに振り返ることができるようになったのだと思う。

元気になった状態の自分でお会いできて良かったです。

 

 

「あの点「,」はなんなの」と言われたので,初めて「、」で書いてみました。しかし無意識に「,」に変換しちゃってるので逆に「、」に戻すという三度手間を踏んでしまい,訳わからなかったです笑 この記事を書き終わった後,教えてもらった通りにキーボードの設定を変えてみたので,引き続き「,」で書いてみます。

 

人の記憶に残ることを,恐れない。

 

「自称口下手な人」とは決して寡黙な人の事ではなく,考えていることが相手に伝わっている感覚を満足に得られていない人のことだ。本当に伝わってるかどうかなんて分からないという大前提の上で,話してる自分が不完全に感じるかどうかの問題。抱えているもどかしさは,単に英語が不自由なせいだけではない。日本語も十二分に不充分だ。

具体的には,友達の前でお茶を点てていて,あなたにとってお茶とは的な質問をされて,お茶はhow to join the worldとか答えたりしたとき。How to be committed to the worldって答えた方がまだ親切だったかなと思う。問題は英語の不自然さではなく,日本語でも同じだけ抽象的なことを言うだろうということ。

 

お茶は人となりを映しまくる。毎日のお茶写真に写っているのは茶碗ではなく自分で,自撮り棒など一生いらないほどだ。その写真を踏まえた上で「人に点てたらどうですか」と言われれば,虚を衝かれた気分で半笑いになる。いかにも「一人」なお茶ですか?本当はね,毎日誰かといるし話すし,最近は意識的に人に点てにいっている。そこで冒頭に話が戻る。物質的に一人でいる訳でなくて。

人にお茶を飲んでもらった後に「あぁ粗末な茶だった」と申し訳なさに駆られる性なので,人に振る舞うことは正直避けてきた。でも美味しくないお茶を点てながら茶人を名乗ってるのは愚の骨頂なので,人に点てるごとに美味しくなっていくはずと言い聞かせて重い腰を上げる。そもそも茶人を名乗らなきゃいいだろ,っていうのはここでは議論しない。

 

後悔することが嫌いなので,結果を引きずることはあっても,過去の判断を悔いることは私自身はない。ただし,例えば相手の中に残った「あの人のお茶まずかったな」という印象は,こっちの都合では消えてくれないだろう。一人で完結していることなら,自分が後悔しなければ後腐れがない。どんな苦くてまずいお茶も,私の中だけで消化したい。私は自分のペースで,飲み干してまた生きていけるようになるから。

お茶が苦ければ苦いほど,他人は一緒に飲んではくれない。それぞれが自分のお茶で精一杯だから。悲観的なことを言いたいのではなく,最終的に這い上がれるかは自分次第だっていう意味で。

 

なんでこんな考え方なのだろうかと考えたとき,自分がずっと恐れてものに気づいてしまった。私は人の記憶に残りたくないのだ。気づくと,私の点てるお茶がまずいかどうかも相手には分からない距離を保っている。だからなのか,成り行きとはいえ,結果として節目節目で住む場所を移っている。そりゃ人生のステージによって関わる人は変わるだろうけど。

今まで見ぬフリをしてきたことを,最近は急に受け止めてしまっている。日本語で会話できる相手が欲しかったのかもしれないけど,日本語でも話したいことは結局話してないなとか。考えてることが充分に伝わってる感覚の得られる人を求めてるんだなとか。温度の同じ人と一緒にいることを欲していても,近しい人が同じ温度であることは少なかったな,とか。

 

欲しているものが分かっていて,それを近づけない/近づかない生き方で幸せになろうとするのは,あまりに遠回りすぎる。同じ温度の人を欲している場合,それ以外の人にどれだけ囲まれようと,いつまでも幸せにならないのだ。

 

「単にここじゃない場所に行くこと」は,もはや正解ではない。

今立っている範囲で手に入れられないものは,場所を動いたぐらいでは手に入らない。

 

ここで突っ立ってもいられないし,「ここ」は必ずしも現在地とは限らないから,正確には多少動くと思うけれど。場所が変わってきたことに関して全く後悔はないものの,今後はもう場所を変えるだけでは意味がない。人との関わり方を少しずつでも変えて,考えを話すことにもっと慣れる。

いくら実際の私が「まずいお茶の人」だったとしても,だからこそなおさら,昔よりは美味しく点てられるようになったお茶を,誰かに飲んでもらうべく生きた方がいい。