それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

茶人が思う,味のついたお湯の話。

今週のお題「飲み物」

 

例えば,ある失敗をしたときに,すごくポジティブな意味付けをする人がいる。失敗そのものは意味を持たない,あるとしてもその失敗によって自分が恥ずかしい思いをした,とかいうぐらいのものだと思う。ある失敗を「話のネタになるな」とか「成功しない方法を知った」とか思えるのは全て,あえてポジティブな意味付けをしているからに過ぎない。

あたしは人生自体に意味は無いと思ってるし,幸せになるために生まれてきたというよりは生きているとたまに幸せになる,といった方が正しいと思ってる。「人生って楽しいものだなぁ」ともし思いたいのなら,自分で人生にいい感じの意味を与えなきゃいけないんだろう。よく真っ白いキャンバスに絵を描くとかいう言い方で表されるのかもしれないけど,あたしはそれを意味付けと呼んでいるのかもしれない。

 

「人生の目的は目的のある人生を送ることだ」と言った人がいたけれど,あたしの言葉で言えば,「人生の意味は意味を人生に与えることだ」。

その方法でしか,意味を体感することなんてできないんだと思ってる。あたしにとってそもそも無いものだから。あったとしても,誰かにこれが人生の意味ですって言われてスッと納得できる気がしないので,自分で見つけるか意味付けるかして腑に落ちるまで,それは存在していないのと同じ扱いを受ける。気がする。

 

 

ティーバッグとかで簡単なお茶を飲んでいるとき,たまに,もしかしてただお湯に味を付けて飲んでるだけなんじゃないかという感覚にとらわれるときがある。茶人などと名乗っておきながら,この感覚はまずいと思っていた。どうして自分はお茶という,お湯に味を付けただけのように思えてしまうものに惹かれたんだろうか。抹茶も粉とお湯を混ぜただけのもので,点てる人や煎れる人,お茶の質によって味が違うとはいえ,原料を辿ればただそれだけだ。

 

でも,無味無臭のお湯に味をつけることは,空っぽもしくはまっさらな人生に意味を与えることと同じなんじゃないか。お茶も,人生も,それを味わうために。

 

別にみそ汁でもなんでもいい,お湯に味をつけること知り,文字通り味を占めたら,お湯では物足りなくなるだろう。最近白湯が好きな人も多いけど,濃い味で舌が麻痺すればお湯だった頃が懐かしくもなるのかも。

 

お茶と人生は同じだよねなんてことを言いたい訳じゃない。あたしがただ,茶碗の中に人生を見ようとして,そのように意味付けをしているだけ。そう言いたい。

 

 

 

 ***

今週のお題が【飲み物】だと聞いて,これははてなブログさんからのフリだなと思ったのだけど,このお題のために書いた訳でなく放っておいてもお茶の話を書いています。よりによって茶人がお茶を「味のついたお湯」呼ばわりするという大いに問題のある記事で今週のお題に投稿してしまうことになりました。

よくフレーバーティーって名のつく紅茶がよく売ってるけど,あれこそ香りと色をつけたお湯じゃないだろうか。お茶に香りをつけてるように見えて,まぁ売り出し方としてはそうなんだけど,実際にはティーバッグや粉末(スティックタイプとか)のお茶はもうお湯に溶かして風味を楽しんでるように感じてしまう。

 

手軽なお茶も好きだけど茶人として罪悪感があるので,少しでもお茶にコミットしようと毎日茶筅を振って抹茶を飲む。これでこそ"make" a cup of teaなんじゃないか,と思いたいんだろう。それでなくてもお茶を飲むという行為はすぐ過ぎていってしまうものなので,取り留めようとiPhoneで撮る。

f:id:amnjrn:20140426115036j:plain

 一眼の写真と違ってサクッとアップできていいね

 

 

 お茶を飲む行為自体よりも,それをTwitterに毎日アップしたり英語でお茶について書いたりすることがもたらしたものの方が多い。今回の話も英文で更新してたら,アメリカの友達から「じゃあ茶葉から育てるのか」みたいな反論が来て反省した。以上です。

 

 

「憧れない、ちから。」を読みました。

 

憧れない、ちから。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

 

いぬじんさんのブログに感想を書くなんて恐れ多いのですが,そして慣れていなさすぎてどうリンクを貼ればいいのかも分かっていませんが,あまりに膝を打ちすぎたので思ったことを赴くままに書いてしまいます。いぬじんさんの意図と多いにずれてしまうかもしれないことを先にお詫びします。

 

* 

 

今まで,特に自分がくすぶっているとき,”そうなりたい人”がいないことが原因だろうかと思うことがあった。尊敬してる人は誰かよく訊かれるので,答えられるように準備してはいるものの全員男性で,特に女性に対してこの人みたいになりたいと思うことが無い。「憧れの人」がいないということは,到達したい地点が定まっていないことと同義なのではないかとも思っていた。

 

なんのコネもなく今住んでいる場所に来た最初の1〜2年間,年上の人に「よくしていただいた」。いぬじんさんの言葉を拝借すると「見知らぬ地平まで,一気に連れて行っ」てもらっていた。確かに全く予想もしてない,もともと憧れてもいなかった地平に連れて行ってもらえる。誰かに連れて行ってもらえないと行けないようなその場所自体は魅力的かもしれないけれど,そこにいることに違和感があるような場所だった。自分の能力が足りていなかったというのも理由だろうけど,憧れるほどには私と合う世界ではなかった。

もちろん,その年上の方々は最初のきっかけをくれたに過ぎない。その後も多くの人と出逢っていって,それがまた苦痛だったりしたのだけど,その都度判断してきたのは自分。ただ,今思うこととしては,どれだけ誰かを尊敬して誰かについて行こうとしても,そしてその試みがこれ以上なくうまくいったとしても,その連れて行ってくれそうな人にとってのゴールにしか辿り着かないということだ。

 

連れて行ってもらった地平の違和感に慣れることもできる。多分そういう努力もあたしには必要だった。でも,慣れることと同じぐらい,反対に,”違和感のある場所”にはあまり長く身を置かないことも大事。そして、違和感なんて本人にしか分からないんだから,自分を違和感のない方向へ連れて行ってくれるのは自分しかいない。

 

例えばあたしは,英語をなんとかしなくてはいけないけどどうにもならない状態が長く,誰か「憧れの人という便利な乗り物」が飛んでこないかなぁとずっと思ってきた気がする。でも,第二言語習得みたいなことにおいて,人に働きかけてスキルを習得させるなんてことは容易ではない。自動車の教習とは違う。英語が自由に使えるという望ましい地平にショートカットする方法は,もちろんハックとして人から学べばよくて,そういう意味では誰かに憧れておけばいいかもしれない。でもそれは”うまくいくかもしれない方法”を教えてもらうだけのものであって,うまくいかなかった場合はやはり直接的に連れていってもらえるものではない。誰もあたしを”英語が使える状態”になんてしてくれない。ハックを学び取ることと,誰かに違う場所に連れて行ってもらうことは,両方とも誰か他人に頼っているように見えて多分違う。

 

 

あたしもその違和感ばかりの世界から抜け出してすぐはどうしようも無かった。でも,辿り着きたい地平が定まって,人ではなくその地平に憧れて,第二言語習得を手伝ってくれそうな(だけで実際に身につく訳じゃない)人たちに頼るのをやめて離れて,来年無職にならないためには英語をするしかないんだという状況に追い込まれて初めて,本当に自分をどこかに連れて行くための努力に懸命になれるようになった。逆に,そのときにようやく,自分が行きたい地平に辿り着くことを確実な形で手助けしてくれる人たちの存在に気付けた。

変な話,自分を連れて行ってくれる「憧れの人」も,一定以上自分が行動を起こした後にしか現れないのかもしれないし,自分が行動を起こした後だからこそ「憧れの人」も自分を連れて行ってくれるのだと思う。

 

もし今後無職フラグが立ったら。その都度自分で次なる地点を定めて歩いていくべきなんだろう。結果的に誰かに助けてもらうことになっても,最初から誰か「便利な乗り物」に助けてもらおうと思っていると,また同じことを繰り返しそうなので。

 

 

お礼状の形式でお茶会レポ。

拝啓

春爛漫の候,皆様ご清祥のこととお慶び申し上げます。この度は茶事にお招きいただき,ありがとうございました。朝晩はまだ冷え込む日もありますが,お庭の花々が今日に合わせたように満開であったことや,お菓子とお料理,茶花などからお茶室でも春を感じることができました。

待合で自然を鑑賞し集まった人々と会話をし,お料理に舌鼓を打ちお茶をいただくという茶事の流れを細分化していけばいくほど,それらは日常の中の出来事なのではないかと今回のお茶会で感じました。これまでは,お作法も茶室の中だからその行為をしているのだと思っており,茶室で起こることと現実との関連をあまり感じられず,茶道は現実の生活と隔絶された非日常を楽しむものなのではないかと思っていました。ですが本当は,茶道およびお茶会とは,理想的な日常を一日に凝縮したものなのではないでしょうか。腰掛待合で待つ間に漂ってくる鰹を焼く香りを味わい,旅先で気に入った器を香合にしようと考える,茶事の中には日常的な楽しさもふんだんに含まれているということを肌で感じました。

それが亭主により再現され凝縮されたものを,数時間のうちに楽しむことができるという点において”非”日常なのだと思います。時計を持ち込まないなど,お茶会のときに流れる時間は明らかに普段流れる時間とは異なっていますが,もしいつもの生活でも時計を見ずに過ごし一日かけて時間をたっぷり遣うことができたなら,茶道に対し現実との乖離をあまり感じなくなるのかもしれません。

平素はかなり簡素化したお点前に触れていますが,それだけでは茶道のあらゆる要素を楽しめているとは言えないと思いました。お道具やお花の名前も,まだまだ知らないことがたくさんありますが,それらは知識として知らずとも生きていけるものではあります。しかし人々の生活を豊かにできるのは,自分が知っている以上にこの世があらゆるもので溢れていることを知識として知ることと,時間を気にせずたっぷり使うことなのではないか,と考えさせられました。そして,白湯に浮かぶ一枚の花びらに心が踊るほど,毎日は感動の種で溢れているのだと気付くことこそ,毎日を豊かにする最大の方法なのだと思います。

これらは茶事全般における先生と奥様のお心配りによって気付けたことであります。このような気付きを得ることができたこのお茶会は,忘れられない想い出となりました。皆様と一期に一度の会を一緒に創りあげることができましたことを,本当に嬉しく思います。重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。花冷えの時節柄,どうぞご自愛ください。

                                          敬具

平成26年4月2日

 

 

追伸:これの英訳を読んだネイティブからは鰹のくだりにコメントが集中しました。