それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

起こったことを「運命」と名付ける。

 

上の記事で書いていたのは,自分で判断できない部分まで悩まずに,他人によって決められてしまう部分は外部に委ねてしまおうという「人生の引き受け方(一手法)」だった。

つまり自分にどうにかできる範囲のみ悩むのだ。*1

 

その都度正しい判断をして起こった結果なら,その答え合わせは全て他人の解釈でしかなく,判断を下した本人にとっては整合性がある。平たく言えば「正しいと信じられる」と思う。

去年から繰り返している言葉で言うと,「起こったことは全て正しい」だ。実際に現実に起こっているものは,起こらなかったことよりも圧倒的に正しい(現実に起こるべくしてなっている)というもの。

 

そう言えるようになった後も,到底正しいとは思えないことは続発する。過去数年を振り返れば正しかったような気もするけれど,進行中の状態に対して,その正誤は分からない。

納得していないまま,「いや起こったことは全て正しいんだから」と思おうとするとき,本当はひどく受け身だ。

 

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あくまで一解釈だが,人生を引き受ける(または起こったことに抗わない)とはおそらく,他の選択肢を選んでいた場合を想像しないことなのだろうと思う。

そのとき,選んだ選択肢は「それしかありえない」道になる

 

今の状態しかありえない,つまりこうなるべくしてなったと思える状態を,人は宿命とか運命とかいう言葉で呼ぶ。ただし,運命は誰かに全部決められているのではなく,私の引き受け方によると思ったのだ。
それは冒頭の通り,一つの課題の中に,他人のジャッジによって決まる部分と自分が影響を与えられる部分があることと似ている。

もがける範囲を放っぽり出して,「起こったことは正しい」なんて言っていられない。

 

もっと能動的に,起こったことに「運命」と名前をつけたい。

下す決断全てを「運命」と名付けたい。

 

 

どんな選択も,仕方なく選ばされたかのように生きていたくない。たまに認められないけれど,本当は,選ぼうと思って選んでいるものだから。

「起こったことは全て正しい」という態度は,諦念でも厭世でもなく,能動でありたい。

 

運命は,私の判断と,私にはどうにもならない何かでできていると思う。

運命という言葉を使いながら,運命論を逆手に取るような,かといって半分は運命論者のような。もう一つの人生の引き受け方を,ぼんやり考えていた。

 

 

以下では「起こったことは全て正しい」と主張してます。

 

 

*1:その結果出した答えが,他人のジャッジによって思い通りにならなかったとしても,私が悩んでいた範囲の判断が間違っていたことにはならない。私は勝手に「失敗した(間違った)な」と判断するだろうけど。