それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「べき論」を無意味にする思考

他人のためにすることは「~しなければいけない」

自分のためなら「~べき」

そんな遣い分け方をしてた。

これからは自分のわくわくすることをしろ

と言われたけどそれは「~したい」かな

 

でもあたしの遣う「べき」は

「こういう自分でありたい」のことなんですよ。

だからこそ

自分がしたくてしてる範囲の「べき」であるべきだった。笑

 

 

誰かのために我慢するとか言ってるのは

結局自分が正しくありたいからで

その正しさを保っても

場合によってはその正しさは

とても,小さいよね

 

我慢することや律することが必要なときはもちろんあるけど

それは正しさとイコールじゃないことやっと分かった。

少なくとも誰かのためだとか言い訳じみてみたり

他人の目やらを気にしてるうちはね

 

 

本当の正しさって

好きなものを好きっていうこと

そして,

その判断が誰によるものでもないことが大前提

 

「楽しむことに罪悪感あるよね」とも言われて

まぁやりたいことをやることを

手放しに望めない自分もいる

一番変えるべきはここかもしれない

 

 

正しい自分なら肯定できるから

あたしは正しくなきゃいかんのだと思ってたけど

人生は自分を好きになっていく作業なんだ,とふと気付いて

肯定するためというよりは

自分を好きになるために

自身の行動を選択していく

 

正しさを良しとする自分もしくは他人がいるから

こうして今の自分が成り立っていて

多分正しさそのものに

あんまり意味はないんだ。

 

 

判断軸を

"人間としての正しさ"よりも

"自分にとって大切かどうか"にシフトする。

一緒かと解釈してたけどなんだか違うようなので

 

思考は変えるけど,なおかつ

いちばん大切なものは手放さないように

 

 

確かに自分は理屈っぽすぎる

でもこんなことを考えていると一つひとつ納得できてくる。

落とし込むことで先に進んでいこうとするタイプなんだろう