なぜ「茶道が好き」と言えないのか。
茶人100人載ってた1日発売の某雑誌,読みながら本屋で泣いてしまった。買ってから読めばよかった。
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年9月1日
流派も茶道歴も関係ないって言うなら,なんで全員の名前の横に流派と茶歴を書く必要があるのか。
そして弊修論の研究対象の皆さんが,見事に流派を載せてなかったことに救われてまた泣いた。
1日の過ごし方を考えることは,1日のどこにお茶の時間を設けるかを考えることであり,プライベートで会う人も全てお茶きっかけの人々だが,別にお茶が大好きですと話したことはない。少なくとも自分からそのようなポジション取りをしたことはない。
だから「大好き」から始まるコミュニケーションや,「熱中できるもの」というカテゴライズとは縁が遠い。好きだという自覚がなくとも熱中できたり,考え続けることができたり,気分が最悪な日もお茶を点て続けたりできる。
もう「好き」とかいう言葉とは関係のない,独立した事象が起きているといっていい。
ではなぜ現代茶道を学士から修士まで論文の主題にしたかというと,茶道を手放しで好きだと言えないことに対する疑問が根底にある。
1人で雑用を引き受けていた茶道部での4年間,1年間が限界だったあの茶道教室,お茶の写真なり修士論文なりが一定以上の人の目に触れたとき,謂れのない反応が返ってくる,茶道という世界。
論文など書き始める前から,書き終わった後も,なんでこの世界にいるのだろうと,何度も何度も思わされてきた。
一般的な例でいえば,お中元とお歳暮の金額が先生に指定される季節の挨拶(現物ではなく現金払い),生徒によって金額の異なる退会金などなど。(現金システムや退会金は,私のいた茶道教室だけだと思いたい)
全く納得できない料金体系だったのだが,好きでお茶を習ってるんだから払うのが当然だ,という前提がある。辞めるにもお金がかかり,「趣味」の域でありながら納得しがたいものにお金を納めるというビジネスモデルが,現代でも普通に存在していた。
その教室に通いながら茶道を好きだと発言することは,その料金体系に納得することと同義になる。
ただし月謝プラス謎の会費は,遅れることなく1年納め続けた。当時は学生だったが,払い続けられなくなったというよりは,それ以上はその先生に払いたくなくなったというのが正しい。
そこに通い続けていたら,お茶を嫌いになるだろうと思ったのだ。
環境に恵まれなかったせいか,どうもお茶のことを好きと言えない人生が続いていた。茶道や「お茶」自体が悪かったというより,私のいた場所がよくなかった。それは認める。
あの時がすべきだったのは,いい教室を探し続けることだっただろう。
ちなみに1年通ったその教室は,問い合わせの段階で住所を聞かれ,見学の段階で入会金を払わされ即日入門する教室だったので,実質茶道教室巡りはできなかったのだが。
入学金だけ払いその場は帰宅し,その後一回も来なかった人の数は,毎週通っていた生徒の数より多い。
そのトラウマもあり,茶道教室の門を自ら叩くことはもうないと思う。
(私もすぐにこの教室はまずいと思い指導教官に相談したら,「今どきそんな教室は珍しい。よく見つけた」と逆に褒められ,修論の肥やしにする思いで,1年間はそこでフィールドワークをすることにした。だからそんな教室でもすぐに辞めることはなかった。)
そうやって研究もプライベートも茶道に費やしてきて,端から見れば茶道が大好きな人だった。でも実際には,好きだけで突っ走るところなどなかった。
好きだから引き受けたいと思うような苦労だったわけでもなく、逐次その苦労を苦労として,不快なものとして受け取っていた。
好きの度合いによって,嫌いな部分が嫌いじゃなくなるということはなかった。
自らの意思で,就職や進学よりもお茶を優先してきた過去には納得している。部長でもないのに雑用を引き受けた4年間も,もう過去のこと。
ここで一例として,東京五輪のボランティアがなぜ「搾取」なのか考えてほしい。
なんらかの経験と引き換えに労働力を支払う行為が「ブラック」で「搾取」だと言われる条件は,立場の弱い側の払う対価があまりにも大きいことだ。
「好きなんだったらいいでしょう」「好きでやってるんでしょう」という一言で,一方的に不利な条件を引き受けることになったり,理不尽な理由で金銭的にもマイナスになるのは,オリンピックのボランティアと変わらない。少なくとも私は,納得がいかない。
つまり自分にとって,お茶が好きだと発言することは,理不尽を取り込み,自分の尊厳や意志を失うようなものだった。
換言すると,ただ好きというだけで「お茶」という世界にぶらさがっているのではない,というところに意志があった。
だから,「好きでやってるんでしょう」って言う他人からの投げやりな言葉は,好きという気持ちと,好きでいる意志を奪うものなのだ。
本当に好きな人は,「好きだから」という言葉で納得しなくても,たとえ一人でも続けてる。
茶道教室で起こったことを茶道を習っていない人に話せば,お茶ってネズミ講でしょと,(茶道教授者本人よりも)私が言われてきた。相手が茶道修練者であればあるほど,「よくあること」「お茶はそういうもの」の一言で片付けられる。
茶道教室の生徒とは,「お茶はそういうもの」と納得できた人々だ。私も他の茶道修練者のようにそこで納得できたら,茶道教室に大人しく通うことはできた。
その代わり,あの修論は1行も書けなかっただろう。
私一人が教室に通わなくても(あとしばらくは)茶道教室ビジネスは続く。茶道なんてお金と時間に余裕がある人がやればいいものだからこそ,私は違うものは違うと言いたかった。違和感を誤魔化したくなかった。
自分の中にある「好き」という気持ちが,現実を目眩し,騙し騙し生きていくことに耐えられない。
好きなんて言葉以上の態度で示したい。
教室を探し回らず,教室の中に理想の世界を見出す代わりに,毎日家でお茶を点て始め,現在まで続けてきた。茶道教室でお金を払ってお茶を続けなければいけない,という決まりはないのだ。
「好きでやってるんでしょ」とか「好きなら納めるお布施」とか,そんなものを気にしなくていいお茶は,家の中の1畳のスペースにしかなかった。
だから,私にとってお茶との関係とは,好きだと言えるか言えないかのせめぎ合いだった。それは,お茶自体が良いものだとか悪いものだとか,そういう議論ではない。ただ私がハズレのくじを引いただけ。
ただし運試しのようにクジを引き続けるよりは,「無い世界は自分で創らなければならない」と感じた。
あの雑誌に載ってたような世界に私の居場所はなく,いたい訳でもない。しかしインフォーマントの皆さんのようなお茶も,同時代的に確かに存在している。
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年9月1日
世界のどこを見て,どうお茶と過ごしていくか。
人のお茶については書いてきたけど,自分のお茶については全然明文化してこなかったなと思う。
今も家で「お茶」はしていますが,茶道教室に関してはもう門を叩くことのない世界なので,個人的な話は避けてきました。
もう(その教室の先生であれ誰であれ)誰のことも恨んではいません。修論のあとがきに書いたように,好きな方のお茶も好きになれなかった方の茶道も,どんなお茶も等しく現代のお茶だと思えたのは,もう恨む段階を超えたことを意味しています。
お茶をする理由が,「お茶を好きだから」で収まらない思いであることと,周囲の「お茶を好きでやってるんでしょ」という認識のズレがずっとあったので,書きました。
↑ そうやって書き上げ,全文無料公開中の論文です。これが私の「好き」の示し方です。
起こったことを「運命」と名付ける。
上の記事で書いていたのは,自分で判断できない部分まで悩まずに,他人によって決められてしまう部分は外部に委ねてしまおうという「人生の引き受け方(一手法)」だった。
つまり自分にどうにかできる範囲のみ悩むのだ。*1
その都度正しい判断をして起こった結果なら,その答え合わせは全て他人の解釈でしかなく,判断を下した本人にとっては整合性がある。平たく言えば「正しいと信じられる」と思う。
去年から繰り返している言葉で言うと,「起こったことは全て正しい」だ。実際に現実に起こっているものは,起こらなかったことよりも圧倒的に正しい(現実に起こるべくしてなっている)というもの。
そう言えるようになった後も,到底正しいとは思えないことは続発する。過去数年を振り返れば正しかったような気もするけれど,進行中の状態に対して,その正誤は分からない。
納得していないまま,「いや起こったことは全て正しいんだから」と思おうとするとき,本当はひどく受け身だ。
あくまで一解釈だが,人生を引き受ける(または起こったことに抗わない)とはおそらく,他の選択肢を選んでいた場合を想像しないことなのだろうと思う。
そのとき,選んだ選択肢は「それしかありえない」道になる。
今の状態しかありえない,つまりこうなるべくしてなったと思える状態を,人は宿命とか運命とかいう言葉で呼ぶ。ただし,運命は誰かに全部決められているのではなく,私の引き受け方によると思ったのだ。
それは冒頭の通り,一つの課題の中に,他人のジャッジによって決まる部分と自分が影響を与えられる部分があることと似ている。
もがける範囲を放っぽり出して,「起こったことは正しい」なんて言っていられない。
もっと能動的に,起こったことに「運命」と名前をつけたい。
下す決断全てを「運命」と名付けたい。
どんな選択も,仕方なく選ばされたかのように生きていたくない。たまに認められないけれど,本当は,選ぼうと思って選んでいるものだから。
「起こったことは全て正しい」という態度は,諦念でも厭世でもなく,能動でありたい。
運命は,私の判断と,私にはどうにもならない何かでできていると思う。
運命という言葉を使いながら,運命論を逆手に取るような,かといって半分は運命論者のような。もう一つの人生の引き受け方を,ぼんやり考えていた。
以下では「起こったことは全て正しい」と主張してます。
*1:その結果出した答えが,他人のジャッジによって思い通りにならなかったとしても,私が悩んでいた範囲の判断が間違っていたことにはならない。私は勝手に「失敗した(間違った)な」と判断するだろうけど。
選ばれるかどうかは,私が悩むべき問題ではない。
「受かった方に進む」つまり「呼ばれている場所へ行く」。
分岐点で立ち止まったときの大原則は,いつもそれだけだ。
許可がないと進めない学校なり就職先なり(恋愛対象も同様かも)が下すジャッジは,覆そうとしても徒労に終わる。
通常は私側の実力不足のせいと言われるが,相手側にもニーズや主張がある限り,私側の変数(実力,魅力など)で全てが決まることはない。
もし私側の変数がMAXだったら..などと思うことは,他人のジャッジに自分が関与できると思いすぎだ。
「行きたい」と思うのは私の勝手だが,それが叶うかどうかは他人に委ねられていることが多い。そして「選ばれない」という最大のファクターによって,選択肢も狭まる。選択肢があればまだいい方かもしれない。
いつまでも選ぶ側に立っている人は,「選ばれない」というファクターを通す前の段階にいる。選ばれないのではなくて,まだ選んでいないのだという立ち位置。
悩んでいる状態とはつまり,まだ選べるつもりでいるということだ。
私はその状態が嫌になって,サイコロを2回だけ振ってみた。
ひどく抽象的な言い方だが,全く違う働き方を天秤にかけ,「選ばれるかどうか」を見たいと思ったのだ。
私に決定権があるかのように悩むのではなく,「選ばれるかどうか」というファクターを通してみて,「いくら悩んだところでここからは私自身の問題ではない」という状態になりたかった。*1
その途中で,「進みたい」と思っていた道が遠回りだったことにも気づく。もしその道を通らずに進めるルートがあるなら,そっちを選んでしまいそうな意志の弱さも見せつけられる。
つまり,「選ばれるかどうか」のファクターを通した後に,初めて私側の課題が見えてきたのだ。
働き方に関して具体的に言えば,オフィスワークの内容にこだわりはないが,お茶に向き合えていないとどんな仕事にも耐えられない。逆に言うと,お茶に対してしたいことができていれば,それ以外の仕事はなんであれこなせる(修論公開中の自分みたいな)。
今抱えている猛烈な焦りは,お茶に対してできることを見失ったことから来ている。または,お茶に関係なくとも,自分の中にあるものが何も表面に出てこないこの状態からきている。もはや働き方にも直接関係ない。
これは「選ばれるかどうか」ではなく,自分側の問題だなと気づいたのだ。
実力が足らないこと,時期でないこと,本気でないことは,自然に叶わない流れになる。「叶わない」というジャッジは,私がしなくても他人がしてくれる。
大切なのは,私がしなくてはいけないジャッジを見極めること。
何が好きで,何にコミットしていたくて,何ができていたら満足なのかということ。何は絶対に許せないのかということ。ここに関しては,他人に判断させる余地はない。
漠然と悩むと,自分にしかできない判断と,他人が下す判断を混ぜて考えることになる。
私の判断が他人のジャッジを覆せることが少ないように,他人のジャッジは自分が下した判断(私側の変数)と関係ないかもしれない。悩んでどうにか影響させられるのは,自分の変数だけだ。
他人のジャッジに散々振り回されてきた。しかし今,本気でもう一度悩むべきは,お茶を通して何ができるかということ。
1つ矛盾として,「人の役に立ってこそ需要」であるなら,それこそ「選ばれるかどうか」を基準にしなくてはならないのだろうけど。
2018/08/09 最近のお茶になかったものは、道端のムクゲに目を留めて取ってくる時間だったかもしれない。朝には開いていた。
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年8月9日
今日お会いした方々のおかげで,なぜか躊躇っていた踏ん切りが一つついた。
なんでこの人生を選んだのか前向きに答えられるように,今すぐできることは全部する。 pic.twitter.com/WTJNPGHSSR
*1:働き方や受験だけでなく,ある人に告白したりするのも「選ばれるかどうか」のファクターを通す行為だ。片思いはつまり,自分が選ばれるかもしれない可能性のまま留まっておこうという動きでもある。