それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「それがあなたです」が褒め言葉であること。

 

どんな人間関係でも,後から嫌いになることはよくある。

しかし最初から相手の欠点ばかりを見ているのではなく,むしろニュートラルな状態,もしくは好ましく思っている状態から,だいたいの人間関係は始まるのではないか。


そして人間は完璧ではないので,いいときばかりではなく,失望させ合う。


その連続の先に,「好きなままでいさせてくれない人」を嫌いになっているのだ。

 

 

許せなかったある人のことを話したとき,友人は私に共感するでもなく,「(その相手は)普通の人だったんだね」と一言残した。

何が「普通」かは今でもよく分からない。ただし私はいつも「相手が自分ほど頑張っていないこと」に怒っていた。

男女,年上年下に関わらず,自分より頑張ってる人は絶対にいる。その中で,「自分より頑張ってない人」に時間を割く意味が分からなくなり,「好きなままでいられなくなる」ことはある。

 

 


年をいくつ取っても思うのは,同じ山を一緒に登れる仲間はなかなかいないということ。

しかし今より若かった頃は,自分がどんな山を登っているかも分からなかった。そんな状態では,誰かと一緒に登ることは難しい。

 


独りだろうと登り切った山頂では,別の山の頂にいる誰かが見えるだろう。

その誰かのことは,すぐに好きになれそうな気はする。

同時に,「どんな山を登っているのかよく分からない人」のことを,「自分より頑張っていない人」と呼んでいたことが分かった。

 

 

でも,どんな人も「生きること」でまず一生懸命だ。

こういう山を登りたいんだと,まだ喧伝してる段階の人。その状態を「一生懸命」と呼ぶ人もいる。

私にとっては登る気にもならない山を理想とする人だっている。


それが「世界は私ではない」という状態だ。

 

 

10年ぐらい前から,山を登ることばかりに必死になってきた。

でも,穴掘ってる人もいるかもしれないんだよな。

 

 

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違う価値観で生きている人を好きになることや褒めることは,私にとっては難しい。

しかし,自分や何かとの比較でしか対象を評価できないとき,その行為は幼稚ささえ感じさせる。

 


例えば,これまでの人生で一番的を射た言い方だと思ったのは

「みんなはあなたじゃないから。

自分ができるならみんなできるっていうのは,ワ◯ミの社長と一緒だから」だった。

 

その言葉が批判でなく受容だったことが,嬉しかった。

自分が何かより優れていると言われなくても,どんな優れた人も,どんな優れてない人も,私ではない。

誰かと比べるまでもなく,その人がその人であることを,そのまま認めることだってできるのだ。

 


 

相手に「これがあなたです」と言われて嬉しいこと。

私の言った「それがあなたです」が,相手にとって褒め言葉であること。

 

 

それが求めてる人間関係だ。

「これがあなたです」という言葉が双方向的に嬉しいこと,その状態を「好き」と呼ぶべきだったのだ。

 

 

そうやって受け入れられることは普段ないから,自分で「これが私だ」と思えるための努力が必要になる。

それが私の言う,いつまでも「山を登っている」状態だった。

 

 

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「これが私だ」と気付いた時の,

そして「これが私だ」と自分に言ってあげられた時の,

あの気持ちで今日まで生きてこられた。

 

 

その気持ちを誰かに与えられるのなら,それは肯定であり愛なのだと思う。

 

好きとも慕情とも名前がつかないところで,「それがあなただ」と言えること。

「それがあなただ」と言うことで,私が感じたようなあの気持ちを相手に感じてもらえること。

 

先述の「みんなはあなたじゃない」然り,自分は散々肯定してもらってきたくせに。 

私はこれまで四半世紀,「それがあなたです」という言葉を,肯定とともに投げかけることができなかった。

 


 

人は裏切る。傷つける。


離れていくし,離れたくなる。

 

 

人の繋がりの脆さを,今ある状態の不安定さを,これでもかと知っている。

 

 


しかしその脆さは,「目の前のあなたを肯定しなくていい理由」にはなり得ない。

同様に,私を否定していい理由にもなり得ない。

 


これまで「それがあなたです」と受け入れてもらってきたように,誰かの,世界の脆さも受け入れること。

世界の脆さを否定することなく「これが私だ」を積み重ねていくことは,本当は可能だ。

そして自分はもう,その段階に入るべきだ。

 

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抱えているカルマの一つが「愛」なので,「愛」に現時点なりの答えが出る度に,今いる世界よりもっと広い世界に,一つひとつ何かを残せるような気がしている。

 

そして「肯定」や「愛」に気づく前と気づいた後では,世界に遺せるものが違うだろう。

 


ここ数ヶ月考えてきた,今思う「肯定」の形を,ここに留め置きたかった。

 

ここからの1年もまた,「愛」や「肯定」に答えを出しながら生きていけるのなら。

五里霧中すぎるこの日々が,これまでの四半世紀より楽しくなる確信だけがある。