一人でも生きていける,と思えるとき。
アメリカの友達(年上)と飲んでた際に,彼が「留学したり仕事の関係で国が変わる度,友達とは途切れる」と言い出した。「僕には20歳より前の友達がいない。君(私)はこの前も高校のときの友達に会ったって言ってただろ?」
私はというと,そのアメリカ人の友達と飲んだ前日も,学部時代の先輩と数年ぶりにご飯に行っていたのだった。
今目の前にいない知人に関する私の意見は上の記事の通りで,その友達にも同じことを言った。
「他人と自分の体験を全てシェアできることは無いと思ってます。そして,誰とどれだけ仲良くなっても,究極的には人は思い出しか所有できませんから。うーん,昔の友達と会っても昔話するだけだから無駄って考える人もいますしね。」などと,別に昔の知人にこだわらなくていいよと言い続けた。
その前日に会ってた学部時代の先輩と私は何の話をしただろうか。このブログを見てればだいたいの出来事は分かるし,現在の話をして,「いつ(になったら)本出すの?」とか訊かれて,未来の話をしたのだった。
「He always listened to me, and he often said あまんじるな(私)の人生は面白いな〜.
One day I realized, there is someone who tells me my life is interesting, that's why my life is interesting.
Without him, my life might be boring? 笑」
(その先輩はいつも私の話を聞いてくれて,よく“私の人生は面白いな〜”って言ってて。
ある日気づきました,私の人生を面白いと言ってくれる人がいるから,私の人生は面白いのだと。
もしその先輩がいなかったら,私の人生はつまらないのかも笑)
「でも」と私は言葉を付け足した。その先輩に会ったのも1年半か2年弱ぶりで,会ってない間は間で,お茶を毎日点てたり日本人以外とばかり話したり,変なことをしていた。個人的には充実していた日々だったことを知っている人は本当に少ない。
そして長いこと私は自分に,自分の人生は面白いと言ってあげていたのだろう。
でもその先輩がいないような人生をアメリカ人の友達がずっと送っているのなら,それは辛いだろうな。
「飲みに誘うから私来てるのに,私の立場は?笑
友達いないって言いますけど,I listen to you, you know. (私はあなたの話を聞いてます,分かるやろ)*1」
友達が言葉に詰まった感じで何も言わなかったので,さらに言葉を続けた。
「5キロ痩せたら〜,って言って痩せること自体に期待してる人は,痩せても何も起こらないと思います。”友達いたら”って思うのは,“友達”に期待してるんですよね。でも,今の私は英語できないし,そのせいで友達も限られてるけど幸せです。何かが無くても幸せって思えることの方が,強いと思います。」
2016/01/15 お菓子の銘は梅ほころぶ。紅白のしぐれがほろほろしてる。
これがあったら幸せだろうって期待してそれを手に入ったときの幸せより,あれもこれも無いけど今幸せだと思えたときの幸せの方が強くて,裏切らない。 pic.twitter.com/2nhf7mpDUU
— あまんじるな (@amnjrn) 2016, 1月 15
そうして,後になってから気づく。
友達いないんだっていう寂しさの吐露すら,友達がいないとできないことなのだ。
私は少し前から,随分強気で生きることができてるけど,「私は一人でも楽しく生きていける」と思うことも,一人ではできなかったのかもしれない。
一人でも楽しく生きていけると思わせてくれた人達は,たとえ目の前にいないときでも,そう思わせてくれてるんじゃないかな。寂寥感や幸福感について考えるとき,物理的な距離をあまりアテにしてはいけない。たとえ誰かといられても,それは幸せを約束しないから。
一人で生きてるときでも独りじゃない,ということを思わせてくれる人と,これからも未来を共有したらいいのだと思う。
*1:この記事で2回くらい出てきた「listen to (人)」,私は「(人)の話を聞く」ぐらいの意味で使ってますが,「(人)のそばにいる」って和訳されてたものを見たことがあります。気をつけて遣った方がいいのかもしれません。