それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

願いの強さに関わらず「したこと」しか叶わない。

 

3年ぐらい前の手帳に「もっと英語を勉強したい」って書いてあった。なんて頭の悪い目標(?)なんだろう。他人やお金が関わらない「するか/しないか」系の夢や目標は,1秒後にでも叶えられるのに。

NZに日本語教師に行く前に書いたものなので,勉強したいというよりは勉強しなきゃいけなかったんだと思う。モノは書きようだ。そしてその「目標」は叶いすぎた。帰国したのが大学3年になる直前で,そこからは気づいたら大学を卒業してるレベルで英語しかしなかった。英語の勉強を(今度は真面目に)続ける理由が見つかったからだ。

 

それとは別に,今年の頭に買った手帳に100個夢を書く欄があって,8個ぐらいしか書かないうちにその手帳が合わなくてもう使わなくなっていた。上半期が終わる頃に久々に開くと,そのうちの1個も叶ってなくて笑った。書いてない願いはいつの間にか叶ってたりするのに,夢や目標なんて書かない方がいいのかも…と思って再びその手帳を閉じた。

 

 

先日シアトルの友達が日本の友達に会いに来ていて,その日本人と私が同郷だったので私にも連絡してくれて会えることになった。去年からLINEやSkypeで結構話してて,彼が留学に行ってからはあんまり話してなかったんだけど,留学前の忙しい時期に私の英文を7〜8枚分も丁寧に添削してくれたりして,本当に助かっていた。もともと相互添削サイトがきっかけで仲良くなった人だけど,直接会ったことのある人よりもよっぽど話してたし,すぐ頼れた。

その友達,初めて直接会った後に「Of course I didn't want to pass up on that chance if it was possible」なんて言ってた。会うまでは大丈夫か不安だったし予定もあったから数時間しか会わなかったけど,それまで話してた通りの人でよかった。

彼が添削してくれたのは私の卒論の要約で,留学先に送るために書いていたものだった。念のため受けようと思った日本の大学院の院試でも英文の要約を送らなきゃいけないことが分かって,両方に送った。合格が出たのは日本の大学院の方だった。

 

ずっと行きたかったのは海外の方だったからといって,その日本の院はたまたま受かった訳じゃないんだと,その友達に会って思った。当時の指導教官や海外の友達が手伝ってくれなければ,どっちにも受かっていなかった。留学したかった気持ちだけを取り上げて「思い通りになってない」「夢が叶わなかった」と騒ぐのはおかしいのだ。
私は周りの人を巻き込んで日本の大学院にも出願した。当時どれくらい行きたがっていたのかという熱量に関係なく,現実に起こったのは出願というアクションだけだ。

 

思うのは,望んでいた期間の長さや想いの強さはあまり関係がなく,ことごとく「自分が実際にしたこと」しか叶っていないということ。

 

英語を勉強したい!すればいい。大学院に行きたい!出願すればいい。友達に会いたい!連絡すればいい。「もしそれが可能なら,そのチャンスを逃したくない」と考えるとき,可能かどうか以前に,自分が何もしなければ全て不可能だったのだ。

もちろん私が手帳に書いたような,留学や英語のスコア*1とかの,自分の能力次第の目標も叶わなかった。ただ,昔適当に書いた「英語を勉強したい」の延長にそのシアトルの友達との出会いがあって,大学院の合格がある。

 

 

今の自分にあるのは「したかったこと」でも「できたこと」でもなく,「したこと」。

 

目の前の現実は,思い描いていたものとは違う。けれどそれが実際に起こったことである以上,頭の中の理想より完璧だ。自分が「したこと」が見せてくれる世界の中で,また私は何かをする。

能力や運や環境だけが人生を決めてるのではなく,実際に「したこと」の連鎖がこの人生だ。仕方なく英語を勉強した訳でも,仕方なくそこに進学する訳でもない,私が選んだのがこの人生だ。

 

 

そういえばと思って,年初に使っていた手帳をもう一度見る。

8個しか書かなかった「叶えたいこと」のうち1つは,シアトルの友達に会うことだった。

 

 

 

amnjrn.hatenablog.com

 「目標」の捉え方が,この時と比べて変わった気がする。

 

*1:上がったけどライティングが基準を超えてなかった