それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

どこまでも「利己的」。

 

「自分の機嫌を良く保ってあげる」っていう言い回しをよくする。

 

例えるなら,

「十三夜(栗名月)だから栗饅頭を買う」シチュエーションで,

あたししか食べないのに

家族にお土産を買っていくような心持ちになることがある。

もしくは,行くか迷ってるお茶会の前に

「せっかくなので自分に面白いことをさせてあげよう」

っていう気分になってお茶会に行くことがある。

何が「せっかく」なのか,こんなとき理由は後付けで,

「日本にいる間に」「卒論の情報収集も兼ねて」なんて

こじつけに聞こえる。

 

頭がおかしいかもしれない可能性は置いといて

あたしはメタ認知か何かの話をしたいのでもない。

他人の機嫌をとるより自分自身の機嫌をとってあげよう

っていう話かもしれない*1

 

 

例えば栗饅頭を買っていこうとする自分も

それを食べる自分も当然同じ人で,

あたしの頭の中で何が起こっていようと

それをいくら説明しようと

「自分を幸せにしてあげられるのは自分しかいない」

という事実の反芻にしかならない。

 

でもそれは悲しいことじゃないんだろうな。

他人のために栗饅頭を買っていくことの方が

より好ましく健全だと

誰が決めたわけでもないだろう。

 

他者に幸せにされたり人を幸せにしたりするのは意識するのに,

自分のおかげで自分が幸せになることは

当たり前すぎて軽視してるかもしれない。

 

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何の気まぐれか

自分の中の一部が急に留学に行きたいと言い出せば

英語の勉強をしてくれるのはまた別の一部だ。

留学とか言い出したのは

自分の一部が血迷ったせいだったかもしれない。

でもそれを行動に起こしてしまって

現実のこととしたのはまた自分だ。

 

 

その一部分をあたしが好きになってやらないと

と思ったのが最近の話で,

こうして

あたしは自分の一部分を好きになった。

その部分が表に出てくるときは必ず

誰よりも自分のことを一番に考えている。

表に出てないときもきっと,

常に「自分のためになる選択をする」ように働いている。

 

 

「自分」っていう誰かのために?

 

 

教育とかボランティアとか

他者がいないと成り立たない活動よりは

学習とか内省とか家で点てるお茶とか

一人でも済む活動の意義を探したい。

だけどそれらの活動すら,

頭の中を探っていくと他者性を感じたりしている。

 

どこまでが「己」だか,分かったもんじゃない。

 

 

*1:この記事の中の「あたし」っていうのは「自分」の集合体のことだと思います。