それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

あなたの「死にがい」は何ですか?

他の子の研究室でこんな本を見つけ

とある項目を見つけた次の瞬間には持ち帰っていた

 

 

今回はその中の1章「死計論①千利休の遺した死に方」に絞ってみる

 

利休にとって死とはなんだったのか。

「死」を受容することによって,権勢・富・武力・象徴としての城廓等々のシリーズに対抗する世界-二畳の侘茶という成員の完成品を守った

とか表現はたくさんあったけれど,

死によって茶の湯を完成させた,というのが一番納得できた。

 

利休の死後1年経ってから山上宗二が言うには

茶の湯は見過ぎ世過ぎの手段であってはならなかったのだ,生き方そのものだった」

 

井上靖の「本覚坊遺文」の中で

秀吉に死を命じられた利休の言葉として

「永年,侘数寄,侘数寄と言ってまいりましたが,

やはりてらいや身振りがございました。

宗易は生涯を通じて,そのことに悩んでいたように思います。

が,突然,死というものが自分にやって来た時,

それに真っ向から立ち向かった時、

もうそこには何のてらいも,身振りもございませんでした。

侘というものは,何と申しますか,死の骨のようなものになりました。」

 

 

「死」にからめて

茶の湯はポーズじゃない

という強いメッセージ

 

 

 

禅語録の中のこの言葉はこの章の骨子。

「化縁完了,任意捨身」

(この世の中で縁につながることをすべてやりおおせたら、いつでも死んでよろしい)

 

思い残すことなし という人生の完遂感を

「ご縁」という観点で得る。

 

 

筆者は戦後の日本の現象の一つとして

死者に対する限りない優しさを挙げた。

なるべくなら「死」を考えたくないために、

「死者」を優しく葬ることにしているのではないか

という指摘は

現代人にとっては何を指摘されてるのかもピンとこない論点。

優しさはすべからく善 としないのだ。

 

 

章のタイトルにもある「死計」のことを「死にがい論」と呼び,

つまりはどんな思いで死を迎えるか

死ぬときに自分の人生をどのように統括するかを問うものとしている。

あたしのTwitterのタイムラインのように

世の中は前向きな言葉や生きがい論で溢れているのに

死にがい論はほとんど見られない。

いかに生きるかについては考えているが

その思考の中に死計が入っていない

 

「死にがい」抜きに「生きがい」を考えることは結構だが

それがあまりにも自己中心的で価値観が自己集約的であれば

meism(自分主義)が幅をきかせることになる

 

 

 

よくある言い回しに「あなたが死んだら悲しむ人(自分)がいる」ってあるけど

あたしの口からこのままの言葉を出すのには違和感があって

これまでの人生で言ったことがない。

 

とある人に「そりゃ(自分が)死んだら困るもんね」って言われて以来

「困るからその人に死んでほしくないのか?」

って思いがずっとある。

 

死自体が悲しいものだから?

そしたら「悲しくなりたくないから」ってことにならないか?

 

誰かの死を悲しむのも(もしくは喜ぶのも)

それが個人の感情である限り,その本人の都合の枠を出ないんじゃないか。

反対に,自分の死を悲しんでくれる人に感謝し

喜ぶ人は無視するのも

自分の都合なんじゃないのか

 

 

そんなことを考えて「あなたが死んだら悲しむ人がいる」って言えない自分は

名実共にひどく冷酷な人間だと思う

でも,定型文のように言う言葉ではない。

死なんとする人への限りない優しさ,

この優しさがクセモノだとする筆者の指摘に通じる。