それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

「自分の一部」の範囲が広い人

「深い瞑想」をカンタンに体感できるちょっとしたコツ・方法 : earth in us.

 

この記事の中で気になる記述を見つけた。(ちなみに瞑想は昨日のハイライト)

 

以下引用

「自分という意識」の「自分」には、以下の2つの意味が含まれます。

  1. 「自分」そのもの
  2. 「自分」が「自分の一部」だと思っているもの

 1には、自分の肉体などが含まれます。(これは誰でもわかるかと)
 ちょっとわかりにくのが、2です。

 2には、例えば、自分のお金、自分の家、自分の洋服、などの自分のモノや、自分の将来、自分の収入、自分の預金、自分の容姿、自分の性格、自分の評判、自分の家族、自分の過去といった、ちょっと抽象的な「自分を定義しているもの」も含まれます。

 人はこれらを使って、自分を他のものと区別して自分という意識を作り出します。これらを「自我」「自意識」「エゴ」と言ったりもします。

 「えー、どこまでが2にあてはまるかわからん」
 という人は、それが誰かに傷つけられたり、奪われたり、損なわれたりしたと想像してみてください。

 そこに「恐怖」「ムカつき」「痛み」があれば、それはあなたが「自分の一部」と認識している部分といえるでしょう。

 こうして「自分の一部」の認識が大きい人(エゴイスティックな人)ほど、ダメージのストライクゾーンが広く、ヒィヒィ生きることになります。

 この「自分という感覚」から、解放され、ある意味フリーダムな状態を体感するのが、瞑想の一つの目的です。 

 

言われてみれば「恐怖」も「ムカつき」も「痛み」も,些細(だと他人には思われそう)なことにも感じてる。「自分の一部」だと認識する範囲が,あたしはすごく大きいな,と。

 

自分自身が悩んでることを他人に突っ込まれるのが嫌い。否定されたくない願望が非常に強い上に,否定されたくない範囲が非常に広い。

 

きっとね,自分の人生とやらに無駄な自負があって,”なんで否定されなきゃいけないの”って思いが先立つんだと思う。そして,実際の人生は自負していいほどではない(と自覚してる)から,そこをつつかれてるようで他人の言葉をいちいち気にしてる気がする。

 

人に否定されても生きていけるって,よく知ってる。これはあくまでいい意味で言うんだけど,あたしの悪い面を羅列できるほどあたしのことを知ってる人間が,そもそもそんなにいないと思う。思い込みとか誇張でない限り,適切な批判をする人はもう少し歓迎してもいいだろうね笑

 

確かに,他人と共存することで生きづらさを感じるときもあるけど,自分を生きづらくさせてるのはあたし自身だ。

 

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頑張ってる自分なら肯定できるし,頑張ってる最中だと思えることで,何も成せてない現在の自分が救われる気もしている。でも本当は,そうやって無理に自分を庇いながら生きる必要なんてないはず。「自分の一部」を狭めて,「自分の一部」ではないものを気にしなければ。

 

あたしはぬるま湯みたいな一時的な幸せに浸かっているのではなく,「一生続いても自分がダメにならないような幸せ」の状態でいたい(人をダメにする幸せボケもこの世にはあると思ってるんです)「恐怖」や「ムカつき」や「痛み」を感じていたい訳ではない。

そのためにできることばかり,ずっと考えてる。考えてたら見つかるとでも思ってるのかもしれない。

 

 

頭が言葉の残骸で埋まってるあたしみたいな人は

瞑想でもして頭を空にするといい気がする。