将来を決定する過程,その考察
オークランドで日本語教師として勤務し
無事に日本に帰国しております。
NZではコーヒーと紅茶以外にHot chocolateという選択肢がある。これが一番好き^^
「起業したいの?」「いつ結婚したいの?」
大学生になってから
未来を尋ねる質問にまともに答えられたことなんて一度もない
常に考えてるはずなのに
大学教授になる夢を諦めてからは
将来のことを喋るのが本当に苦手だ。
就活をするんだということにして
この2年生の春休みの予定も立てたし
4年生時の教育実習との兼ね合いも考えたりしておきながら
結局行きたい業界などないのです
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「あたしはいつ大学院を諦めたんだろうと思って」
帰国してから先輩に話をしたら
「NZですごい楽しそうにやってるなと思ってたけど
ほんと強くなったね」って言われた
行きたい企業を2,3受けるぐらいなら負担にならないし
ダブルスクールで社会人大学院通う人や
数年だけ勤めて辞める人もいるから
っていうアドバイスもいただいて,
これまでいつまでも決断してこなかった自分を責めるより
これからどう生きるか考えることに全力を注ぎたいと思った
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多くの選択肢から選びたがるのが消費者心理とはいえ
あたしが今まで将来を決めかねていたのは
あまりにも選択肢を狭めなかったから。
そのくせ,当然何にでもなれるわけじゃない
どこで,誰と,何をして生きるか
未来の構成要素って,よく考えたらこれぐらいしかない
正直にいうと,あたしはどれも決まっていなかった。
選択肢を増やせばよりよい未来が待っているような気がしていた。
代わりに訪れたのは,焦燥感ばかりの毎日だった
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今のあたしは,将来NZに住んでみたいと思ってる。
住む場所が決まると,どんな仕事があるかなって考えるし
引っ越すまで日本でどうするかを考える
日本にいる期間が決まってくると,日本でやれることも限られる
その中で自分のやりたいことを選ぶことも
自分がやりたいと漠然と思えることを,NZでの生活にすり合わせることも可能
世界を知ることが
逆に選択肢を狭めていくとは知らなかった。
それは悪いことじゃない。
あたしは何も知らなかったからこそ
選択肢すら定まっていなかっただけだった
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南島にバックパッカーしに行くか悩んでたとき
日本語の先生に言われた
「行きたいか 行きたくないか
考えなきゃいけないのは それだけです」
できない理由を難しく考えることがどれだけ無意味か
頭を鷲掴みにされたような気分だった
人生について考えたい
それを自分の言葉にしたい
自分を大事にしてくれる人といたい
自分が大事にしたいと思える人といたい
突き詰めれば突き詰めるほど
ただそれだけ
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人生のどこかの段階で
あたしは大学院に行くと思う。
内定が出れば,数年日本で働くかもしれないけど
(働くのが数年であれば,
ダブルスクールより普通に院に行ったほうがいいかもっていう判断)
他には,日本の院を出てから
時間をとってNZの大学で博士号を目指してもいい
たとえゴールが大学教授じゃなくても
人生を言葉にするための発想も知恵も語彙も欲しい
教育学の卒論を書きながら院での研究計画書を書くことになるし
本当に大変になる
おそらく,ゼミでの研究をなるべく"生き方"にすり寄せて
教育と人生及び人間の中間を探ることになる。
あまりにも主専攻に関係ないことをする苦労は
ベンチャーかじってた時から知ってる。
教育学から逃げちゃダメだ
まずは両方を満たす学問領域を吟味することから
将来院に行かないことになっても
自分のやりたいことを,今したい。