それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

意識の高いふわふわ

あたしが今いる世界の平穏とその空気は

あたしをすきでいてくれる人たちによって保たれている

 

びっくりするんだたまに

人に好かれていることに

 

褒められても(気恥ずかしいのとは別に)ムズムズして

楽しいものを一直線に求めることもできずに

ダイレクトな幸せは怖いものだった

 

感じていた違和感はこれか。

「楽しむことに罪悪感あるよね」ってこれか。

 

 

自分のしたことで相手が

本当に喜んでるのが伝わってくるとき

自分がきゅーっとなる気がする

心が丸く変形する音だったらいいなと思う

 

こういうときはさ

しあわせだって一時的でもいいから思っていいかも

相手も幸せなんだから。

 

 

何手も先を読めてしまうとき

今が幸せでも将来そうじゃなかったりして

または良くないものが浮かんだりして

今の幸せをそのまま受け取ってはいられない

 

こんな状態が一生続くわけない!

っていうぐらいの幸せが常にあるから

幸せが途切れることを恐れるのです

 

でもこれは大学入ってからそう思ってるな

それまでは「こんなに悲観的でも人生いいことあるわ」

みたいな感覚で生きてて,

まぁ結局は基本的に沈んでたけど

大学入ってここ2年弱は違うんだよね

 

めちゃくちゃ居心地がいいことはつまり

努力や実力以上の評価を受けてるんじゃないかとずっと不安で

だったら実力が追いつけばいいと思ってたんだけど

どうしたらいいのかもよく分かってなかった。

だからどんな体力的にしんどそうなことでもこなせた

 

でも違っていてほしい

あたしだったら多分

途切らせないように奮闘する過程も勝手に楽しむよね?

 

 

結果だけにホッとするのは他人の仕事。

誰かの評価にムズムズしていないで

あたしだけは

自分がよく分からない行動を続ける過程を

その日の気分で生暖かく見ていればいい

 

俯瞰する目や自分の意識って

そのためにあるのかもしれないし。