それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

目の前の選択肢に,不満を言わない。

これまでは目の前に起こったことに関して,これから未来をどう変えようか(どうやったら変わるのか)を迷ってきた。

それは,過去にしてきた選択の結果が目の前に現れているのに,今これからする選択肢しか見ていないことでもあった。

今までどんなに選択を誤ってきても,次に選ぶ選択肢で全部チャラになるかのように,次の一手で「正解」を選ぶべく迷ってきた。そしてまた誤ってしまったなら,すぐに次の「正解」を選ぶよう焦らされる。

過去を変えられない代わりに今何をするか,その連続が人生だ。

ただし,現実を直視せずに次の一手を探すことは,時に過去を否定する態度だった。

 

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今選んだ選択肢によって「よりよい未来」になるように思ってきたけど,その「よりよい未来」は,絶対に自分の身の丈程度の未来だと思う。
そしてその「自分の身の丈程度」の度合いは,これまでの行いである程度決まっていると思っている。

つまりどれだけ悩んだところで,「自分の身の丈程度」を超えてくる選択肢は,そもそも目の前には並んでいない。


こんな選択肢は自分にそぐわないと思ったところで,目の前に広がってるのは,これまでの自分(つまり今の自分)程度の選択肢だった。その中のどれを選んだところで,身の丈以上であることも,過剰に身の丈以下であることもない。

たとえ選択肢と理想のギャップに不満足だったとしても。

 

 

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それに気づいた頃,自分に飛び込んでくる話は,確実に今の自分ならできる話なのだと思えるようになった。
身の丈以上の話が舞い込んでくることは基本的にないと思えば,変な謙遜や躊躇いなく,ちょっと背伸びしてでも引き受けてみたりできる。
逆に,昔の自分でもできそうな話は,選んでも選ばなくても大差ないと思って断れた。

いま何かを断るとしたら,少なくとも「自分の身の丈」とか以外の理由があるからだと思う。

 

それでも私は,「自分の身の丈」を少しずつでも上げていきたくて,いつも目の前の選択肢に満足できずにいた。

確かに過去を振り返っても,それぞれの選択肢とその結果は,とても自己評価を満たすものではない。各選択肢のレベル(が低いこと)を認めたくなくて,引き受けきることができなかった。

でもそれを繰り返すうちに分かってきたのは,今の自分が,自分の身の丈を受け入れられない程度の人間でしかないことだった。

 

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だからこそ,少なくとも私に影響する範囲で起こっている全ての出来事は,私の身の丈に合っている。

個人的な不満足や悲壮なんてさておき,「他の可能性が今目の前にないこと」をまず受け入れるべきことなのだと思う。
でも「可能性」である限り,今後どんな選択肢だって目の前に現れうる。それは希望であり,不安定性でもある。

 

喜ばしい選択肢(例えば転職先のお話など)はすぐに引き受けられるものの,悩ましい選択肢に関してはそうではない。その可能性(希望や不安定性)ばかり考えて,目の前の選択肢を引き受けるだけの理由を見つけられていない気がする。
でも必要なのは理由ではなく,目の前にあるその選択肢を否定しないことなのかもしれない。


それは,目の前にある「それ」を,今の自分は「これ」なんだと受け入れることだった。

目の前の選択肢は,正誤も悲壮感も差し置いて,目の前にある。

 

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今から選ぶ選択の結果としての「よりよい未来」を見ようとしてきたけど,「他の可能性が目の前にない現在」が,既に選択の結果だった。「よりよい」はベストとは違うし,不満足も不安もある。それでも。


「他の可能性が目の前にない現在」も,おそらく悪いものではない。 

そう思えるような選択を,これまでもできていたらしい。

 

これからだって変わる可能性が大いにある,むしろ変わっていきたい。
ただ,現在を受け入れたら訪れた安寧を,忘れないでいたいと思ってもいる。 

 

 

ちょっと前に書いた,こちらの続きの話でした。

(先日退職したばかりですが,選択に不満足云々は次の勤務先の話ではありません笑 転職先には大いに満足しております。)

 

選択と「よりよい未来」に相関はない

 

古くからの友人と,誰々が結婚したという話をしていた。その子は「あの人結婚したんだ!」と言った二言目には「あの人あまちゃん(私)と結婚したかったやろうね」と言った。

傍から見て結婚しそうに見えていたところで,私は「その人と結婚しなかったであろう理由」を50個ほど挙げられる。ある予想が現実にならなかった理由は,いくらでも挙げられる気がした。

何かちょっとした理由で「ただ現実にならなかった」のではなく,「現実にならないだけの理由がある」と気づいたのはそのときだ。その理由も1つ2つではない。

本人が自覚できる理由なんて,ほんの一部なのだ。

 

 

去年の春頃(修論提出前)に,起こったことは全て正しいという結論に辿り着いた。しかし同時に,自分の行動と選択で人生が決まっていると思っていた若かりし頃から,人生は行動と選択"以上"のものだと気づいたのもその頃。

上述の「本人が自覚できる理由」以上のものに,人生が左右されていると気づいたのだ。

例えば,家元のお茶も,流派も何もないお茶も,同時代的にこの世にある。どちらが正しいとかどちらが優れているとかもなく,それぞれに現代に残っているだけの理由がある。そこに,正しさや優劣に関係なく,現実に起こっているだけの理由があるという圧倒性を感じたのだ。

修論が何かの批判ではなく,「圧倒的肯定」という結論に至れたのは,上述の思考の流れがあったから。

 

しかし「起こったことは全て正しい」という主張すら,「起こったこと」と「起こっていないこと」を二項対立にしていた。起こったことの圧倒性を根拠に,「起こっていない」ことを否定していたのではないだろうか。

起こっていないこと「より」正しいと,現実と現実でないものを,これまで比較し続けてきた気がした。

 

起こっていないことにも,起こらなかっただけの理由があるのに。
それも,無下にできないほどたくさん。

 

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 今現実になっていないことは,私の努力が足りなかったとか,あのとき返事を間違えたからとか,そんな私側の変数だけで決まってはいない。

「自分側の変数が変わる→結果が変わる」という因果関係を意識しすぎていたと思う。

 

上記の矢印の向きを信じているから,人は目の前の選択肢を前に悩んで「より正しそうなほう」を選べば人生がよくなると思っている。

でも最近は,この矢印の向きが,それほど絶対的なものでもないことが分かってきた。

 

 

例えば,上で書いたようなことを,急に考えられるようになったことは,私にとっては結構な思考の変換だった。今までずっと,「正しさ」を求めて選択を悩んできたからだ。

では思考が急に変わったのは,目の前にいる人がとんでもなく素晴らしいからだろうか?

その人が気づきを与えてくれたとして,そんな素晴らしい人とは,ずっと一緒にいるべきだろうか?

 

 

おそらく違う。

 

「あなたが素晴らしい→気づきを得た」

「素晴らしい気づきを与えてくれた→その人といるべき」

この矢印のような因果関係は,本当はない。

 

急にこの世の因果関係について考えた私。あなたといる私,それぞれは事実だ。

でも,私が考えているほど,それぞれは繋がってはいないのだ。

 

出来事は,同時に起こったり順番に起こったりするのみで,私がここで「因果関係」や「矢印」と呼んでいるものは全て「タイミング(前後関係)」なのかもしれないなと思った。

 

そこを自覚せずに,選択肢自体が正しいかどうかで悩んできた。
例えるなら,「目の前のあなたがとんでもなく素晴らしいかどうか」などを気にしていたのではないかな,と思ったのだ。

でも目の前の人が素晴らしいかどうかって,その人自身というよりタイミング(時期)に左右されてたのかもなと。

 

 

↓ 長くなるので,他の例を出しながら別記事に分けました。


 

 あと多分これも近いこと言ってる。

複業という働き方を選んだ理由

 

会社員じゃなくて「お茶」で生きていきたいんだよね? と言われることに違和感があった。上の記事に書いたような理由で「お茶が好き」と言えなかったからだ。

あまりいい茶道教室に出逢えず,そちらの「茶道」にはそそられない。そして「茶道」の世界で働くことは,そちら側の「茶道」をしている人達がお客さんになるということだ。
それを望んでるんですよねと推察されれば,「全然違います」というのが回答になる。

 

こんな思いを抱えつつ,他の言葉で説明できないので便宜上「茶人」を名乗ったりしながら会社員を1年以上。私の説明の仕方が悪いのもあり,「茶人」と名乗って良かったことは,多分ない。
仮に興味を持ってもらえるとしたら,茶人だからではなく,活動の中身次第だったりするのだから。

 

 

新卒でIT企業に入り,一貫性がないと言われ続けてきた。しかしこの選択も,上に書いたような,どのコミュニティに属し,誰を相手に仕事したいかを考えた結果だ。

秋入学だったので茶人の修士論文の提出と就活の時期が重なって,就活より修論を優先した結果に就いた職。*1 1社目ながら,フルフレックス制でリモートワークと副業が可能だったため,個人的なお茶活動も辞めずに済んだ。(私の意志で辞めることはあるだろうけど)

からしたら,ここ数年はただ「お茶をしていただけ」で,一貫性しかない結果だ。

 

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ある茶道教室にお金を払い続けていたくなくて,もう離れた「茶道」の世界。自分自身が茶道界にお金を納めたくなかったのに,職業として茶道界に身を置くのは自己矛盾だと思ってきた。(茶道教室や流派に納めていないだけで,毎日和菓子と抹茶はいただいているので,エンゲル係数的にはかなりお金を落としているという前提ありきだが。)

地球上の70億人ぐらいは茶道教室など通っていないし,お茶にわざわざお金を払いたがる人ばかりではない。

 

 

つまり会社員と茶人の二足の裸足(草鞋も履けていない)の私が葛藤していたのは,サラリーマン(現職)についてはない。

自分が茶道教室にいい思い出がある訳でもなく,今は教室に通ってないのに茶道がさぞかし素晴らしいものかのように話して生きていくぐらいなら,会社員の方がよっぽど良かったのだ。

ただし,「自分がいいと思って見つめているお茶」はいいものとして,論文文章写真なりで伝えていくことはしている。それをするには,会社員が最適な身分だったかもしれない。*2

 

つまり「お茶」で生きることはともかく,「お茶」と生きていられれば良かった。きっとそれは今できているから会社員をしてきた。

今後何を失っても,そのときはそのときで「お茶」だと感じることをしているか,「お茶」がなくとも幸せで生きているだろうとは思う。


「お茶」を振る舞って生きていくことは,決して最優先事項ではないからこそ。

葛藤も逡巡も,漠然とお茶の人と思われていることに関するものだった。

 

 

必要なのは,「好きなほうのお茶を好き」と言える活動だ。

それが仕事かどうかは二の次三の次だった。

逆に「好きじゃない方の茶道を好き」という活動など,仕事でもプライベートでもしたくない。

 

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数ヶ月前,何でお金を稼げたら嬉しいのか尋ねられた。2秒以内に,「自分の書いたものや撮ったものが評価されれば嬉しいよね」と答えた。別にお茶の人に限らず,対外的な表現活動をしている人には共通する想いだと思う。

つまり私の想い(願望)には,お茶そのものは含まれていない。お茶をしていること自体は目的でもない。*3

ただ単に,今後何をしていくかを考えたときに,そこに「自分が好きなほうのお茶」があるだけなのだ。今後何もしないなら,そこには「自分が好きなほうのお茶」も何もない。それだけ。

 

 

好きなほうのお茶を好きと言い続ける活動の先で,できることがあるのも分かっている。それはお茶に何も関係ない世界で私がなし得ることよりも,大きいような気がしている。

好きなほうのお茶を好きと言える世界が今ないなら,「無い世界は創らなければならない」という想いを,過去数年ずっと反芻している。個人的なお茶ばかりしていないで,「そろそろ人の役に立て」という言葉も脳内で聞こえている。



 

......というわけで,年内にはご報告できそうな話があります。

会社員の働き方とお茶の仕方に関して,まだまだフィールドワークは続きます。

 




以下は私以外の茶人の事例です。この参与観察の延長として,私自身もIT企業に入社しましたが,今後もフィールドは変わる可能性があります。

  

*1:学生の頃から関わってたシステム(バーチャルろくろ)開発者の一人が役員をしている会社で,インターンしてたらそのまま入社した。そういう意味でも,私のやってきたことは全部繋がっている。

*2:その点,大学院生もかなりいい環境だった。

*3:しかしここ数ヶ月は「毎日お茶をすること」が目的になっていたので,しんどくなって距離を置くことにした。写真がなくても,私は「お茶」をしているだろうから。