それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

人生の「小ささ」について

生活とは小さく,お腹が空いたら食べて,眠くなったら寝て,眠くなくてもダラダラして,そんな時間の寄せ集めだ。


ちょっと奮発したランチですぐ満腹になる胃袋のように,思ったより世界は小さかったりする。

笑ったときに見える歯だけホワイトニングするような,マッサージは痛いほうが効く気がして強めにやってもらうような,そんな小ささで世界は溢れている。

 

どんなに盛って写真を撮っても,
50mm単焦点のレンズに収まってしまうほど世界は小さい。

 


この生活と世界の小ささを,私はずっと認められなかった。


誰かと比較されたり,嫌なことを言われたりするたび,そういう扱いをされるのは自分がちっぽけだからだと思っている。大して言い返せない自分の小ささに耐えられない。

 

そうやって自分が小さいと感じる理由を,いつも誰かのせいにしてきた。



私は向上心を振りかざして,大きく大きくなろうとしている。
一緒にいる誰かが私を「大きく」見せてくれたらそりゃ助かる。


散々小ささを責めて気づいてきたのだが,買ってきてもらった焼きたてのパンが泣いてる間に冷めていたような,瞬きしたら冷めてしまう類いの,小さな温かさでできているのも同じ世界だ。

 

そういった「小ささ」も「温かさ」も相対的でしかなく,必ず他人との間に生まれる感覚。
世界に自分一人だったら,小さいかどうかなんて気にしないからだ。

 


それならば「大きく」見せてくれるかどうかなんてどっちでもいいから,自分の小ささを気にしないでいられる人といたい
むしろ「小さい」という言葉がポジティブな意味であるような人といたいのだと思う。

「小ささ」を否定する必要もないような。



記事のタイトルはセネカからとっています。この↓バージョンは本文が見開きの片方にだけ載っていて,すぐ読めておすすめ。