それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

またニュージーランドに行く理由

挫折した事はありますか? という質問の答えは,常にアップデートされている。随分昔の挫折を答えなくていいほど,ネタは尽きない。

2015年秋頃までの自分なら「第一志望の大学院に合格しなかったこと」と答えていただろう。

 

長いことどこが第一志望なのか,第二志望だった院に進学した後も言えなかった。なぜ秋入学なのかと尋ねられれば,「英語を勉強してました」と嘘のない範囲で答えた。
正確には,4月入学の日本の大学院を一つも受験しなかったからだ。

ニュージーランドの大学院に出願したときの書類(IELTSの点数や英文要約など)をそのまま提出することで出願できる東京の大学院を,9月の入学に間に合うよう応募していた。

 

他意のない人にも「本当に出願したんだ?!」などと言われ,人の顔色の中に「受かるわけがない」という本音を見た。
大学院を目指すこと自体が目的なら,「目指している段階の自分」で人と話せただろうに。やはり試験である以上,合格できるまでは誰にも会いたくも話したくもなかった。

 

不合格の事実以上に,「本当に出願したんだ?!」みたいな言葉が,過去数年の努力をなかったことにする。

話してみてもやはり、言わなければよかったと思った。

頑張ってたことすら人に言えなくなってしまって,大学院を目指していた期間は全て空白になった。

 

 

第二志望なんて言い方をしてしまったが,東京の大学院で過ごした2年ほど,人生に満足した期間はない。毎日のお茶と茶人の研究のために全力を費やせてよかったと,負け惜しみでもなく思える。

 

その大学は東京にあるものの帰国子女ばかりで,上述の理由で秋入学だった私の同級生は,全員留学生だった。よりによって留学生の最も多い研究科だったので,授業はほぼ英語だ。

 

いま私の中に留学したい思いがないのは,英語の授業で修士号をとってみて,「ここまではできる」というレベルと「圧倒的にできていない」自分の両方がわかったから。

いまは「留学」が下駄を履いていない。つまり,今の実力でどこまでできるかがもう分かっているから,憧れが薄れている。

あの東京の大学院に行かなければ,いつまでも憧れていただけだろう。

 

 


 

そもそもNZに最初に訪れたのは,2013年の2月だった。
春休みの間にオークランドの公立高校で日本語教師をしていたのだが,日本語で日本語を教えていたため,英語を使わなかった。そもそも,当時の全く使えるレベルではなかったのだ。

日本語の授業で抹茶を出して,生徒が他のクラスの子に「I had matcha today!」と話しているのを聞いていた。英語が全くできなかった私には,趣味でしかない茶道ぐらいしかできなかった。

当時20歳の私はその自覚もなく,一生をかけるに値するものをこれから見つけると思っていた。

 

短期間の簡易バックパッカーになったときは,宿の主人にマグカップで抹茶を差し出すなどした。今やっていることの発端はNZだったのだろう。そこからはどの国に行く時も,抹茶と茶筅を持ち歩くようになった。

これから見つけるのではなく,いま手に持っているもので生きていくのかもしれないと思い始めたのはこの頃だ。

 

 

 ↑この記事に登場する,当時の上司にあたる日本語の先生に「大事なのは,行けるか行けないかではなく,行きたいか行きたくないか」だと言われ,英語も話せないままNZの国内線に乗った。

その後,私は行きたいか行きたくないかばかり考えて,受かりもしない大学院に出願し,秋入学までの不要な空白期間も生まれた。しなくていい失敗の先で,東京で満足のいく2年を過ごしたのだから,なんの不満もない。

ただ,「子供を産むなら20から22歳ぐらいまでがいい。もう遅いけど,でもまだ産みたくない」と話していたその日本語の先生の(当時の)年齢に,私も今年,なってしまう。

 

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初めてNZを訪れてからずっと,1年の抱負に「NZの再訪」と書くこと6回目。

この6年の間に,手に持っていた「茶道」を研究対象にすることに決め,お茶の論文を2本書き,全く話せなかった英語で修士号を取り,大学の同好会レベルだったお茶を仕事にした。

3週間しかいなかった国で起こったことが,この6年の裏でずーっっと流れていたのだ。

 

大学院に受からなかろうと,今は多少なりとも英語を使える。当時は一緒にいた人に全て通訳してもらっていたから,次は絶対に一人で行こうと決めていた。

 

 

ようやく来週,6年越しにNZに行ける。

今度の自分は,何を思うのだろう。