それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

なぜ「茶道が好き」と言えないのか。

 

 

1日の過ごし方を考えることは,1日のどこにお茶の時間を設けるかを考えることであり,プライベートで会う人も全てお茶きっかけの人々だが,別にお茶が大好きですと話したことはない。少なくとも自分からそのようなポジション取りをしたことはない。


だから「大好き」から始まるコミュニケーションや,「熱中できるもの」というカテゴライズとは縁が遠い。好きだという自覚がなくとも熱中できたり,考え続けることができたり,気分が最悪な日もお茶を点て続けたりできる。

もう「好き」とかいう言葉とは関係のない,独立した事象が起きているといっていい。

 

ではなぜ現代茶道を学士から修士まで論文の主題にしたかというと,茶道を手放しで好きだと言えないことに対する疑問が根底にある。

1人で雑用を引き受けていた茶道部での4年間,1年間が限界だったあの茶道教室,お茶の写真なり修士論文なりが一定以上の人の目に触れたとき,謂れのない反応が返ってくる,茶道という世界。

論文など書き始める前から,書き終わった後も,なんでこの世界にいるのだろうと,何度も何度も思わされてきた。

 

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一般的な例でいえば,お中元とお歳暮の金額が先生に指定される季節の挨拶(現物ではなく現金払い),生徒によって金額の異なる退会金などなど。(現金システムや退会金は,私のいた茶道教室だけだと思いたい)

全く納得できない料金体系だったのだが,好きでお茶を習ってるんだから払うのが当然だ,という前提がある。辞めるにもお金がかかり,「趣味」の域でありながら納得しがたいものにお金を納めるというビジネスモデルが,現代でも普通に存在していた。

その教室に通いながら茶道を好きだと発言することは,その料金体系に納得することと同義になる。

 

ただし月謝プラス謎の会費は,遅れることなく1年納め続けた。当時は学生だったが,払い続けられなくなったというよりは,それ以上はその先生に払いたくなくなったというのが正しい。

そこに通い続けていたら,お茶を嫌いになるだろうと思ったのだ。


環境に恵まれなかったせいか,どうもお茶のことを好きと言えない人生が続いていた。茶道や「お茶」自体が悪かったというより,私のいた場所がよくなかった。それは認める。

 

あの時がすべきだったのは,いい教室を探し続けることだっただろう。
ちなみに1年通ったその教室は,問い合わせの段階で住所を聞かれ,見学の段階で入会金を払わされ即日入門する教室だったので,実質茶道教室巡りはできなかったのだが。

入学金だけ払いその場は帰宅し,その後一回も来なかった人の数は,毎週通っていた生徒の数より多い。

そのトラウマもあり,茶道教室の門を自ら叩くことはもうないと思う。

 

(私もすぐにこの教室はまずいと思い指導教官に相談したら,「今どきそんな教室は珍しい。よく見つけた」と逆に褒められ,修論の肥やしにする思いで,1年間はそこでフィールドワークをすることにした。だからそんな教室でもすぐに辞めることはなかった。)

 

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そうやって研究もプライベートも茶道に費やしてきて,端から見れば茶道が大好きな人だった。でも実際には,好きだけで突っ走るところなどなかった。

好きだから引き受けたいと思うような苦労だったわけでもなく、逐次その苦労を苦労として,不快なものとして受け取っていた。
好きの度合いによって,嫌いな部分が嫌いじゃなくなるということはなかった。

 

 

自らの意思で,就職や進学よりもお茶を優先してきた過去には納得している。部長でもないのに雑用を引き受けた4年間も,もう過去のこと。


ここで一例として,東京五輪のボランティアがなぜ「搾取」なのか考えてほしい。

なんらかの経験と引き換えに労働力を支払う行為が「ブラック」で「搾取」だと言われる条件は,立場の弱い側の払う対価があまりにも大きいことだ。

「好きなんだったらいいでしょう」「好きでやってるんでしょう」という一言で,一方的に不利な条件を引き受けることになったり,理不尽な理由で金銭的にもマイナスになるのは,オリンピックのボランティアと変わらない。少なくとも私は,納得がいかない。

 

つまり自分にとって,お茶が好きだと発言することは,理不尽を取り込み,自分の尊厳や意志を失うようなものだった。

換言すると,ただ好きというだけで「お茶」という世界にぶらさがっているのではない,というところに意志があった。

 

だから,「好きでやってるんでしょう」って言う他人からの投げやりな言葉は,好きという気持ちと,好きでいる意志を奪うものなのだ。

 

本当に好きな人は,「好きだから」という言葉で納得しなくても,たとえ一人でも続けてる。

 

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道教室で起こったことを茶道を習っていない人に話せば,お茶ってネズミ講でしょと,(茶道教授者本人よりも)私が言われてきた。相手が茶道修練者であればあるほど,「よくあること」「お茶はそういうもの」の一言で片付けられる。

 

道教室の生徒とは,「お茶はそういうもの」と納得できた人々だ。私も他の茶道修練者のようにそこで納得できたら,茶道教室に大人しく通うことはできた。
その代わり,あの修論は1行も書けなかっただろう。

 

私一人が教室に通わなくても(あとしばらくは)茶道教室ビジネスは続く。茶道なんてお金と時間に余裕がある人がやればいいものだからこそ,私は違うものは違うと言いたかった。違和感を誤魔化したくなかった。

自分の中にある「好き」という気持ちが,現実を目眩し,騙し騙し生きていくことに耐えられない。 

好きなんて言葉以上の態度で示したい。

 

 

 

教室を探し回らず,教室の中に理想の世界を見出す代わりに,毎日家でお茶を点て始め,現在まで続けてきた。茶道教室でお金を払ってお茶を続けなければいけない,という決まりはないのだ。

 

好きでやってるんでしょ」とか「好きなら納めるお布施」とか,そんなものを気にしなくていいお茶は,家の中の1畳のスペースにしかなかった。

だから,私にとってお茶との関係とは,好きだと言えるか言えないかのせめぎ合いだった。それは,お茶自体が良いものだとか悪いものだとか,そういう議論ではない。ただ私がハズレのくじを引いただけ。

ただし運試しのようにクジを引き続けるよりは,「無い世界は自分で創らなければならない」と感じた。

 



今も家で「お茶」はしていますが,茶道教室に関してはもう門を叩くことのない世界なので,個人的な話は避けてきました。

もう(その教室の先生であれ誰であれ)誰のことも恨んではいません。修論あとがきに書いたように,好きな方のお茶も好きになれなかった方の茶道も,どんなお茶も等しく現代のお茶だと思えたのは,もう恨む段階を超えたことを意味しています。

お茶をする理由が,「お茶を好きだから」で収まらない思いであることと,周囲の「お茶を好きでやってるんでしょ」という認識のズレがずっとあったので,書きました。

 

↑ そうやって書き上げ,全文無料公開中の論文です。これが私の「好き」の示し方です。