選ばれるかどうかは,私が悩むべき問題ではない。
「受かった方に進む」つまり「呼ばれている場所へ行く」。
分岐点で立ち止まったときの大原則は,いつもそれだけだ。
許可がないと進めない学校なり就職先なり(恋愛対象も同様かも)が下すジャッジは,覆そうとしても徒労に終わる。
通常は私側の実力不足のせいと言われるが,相手側にもニーズや主張がある限り,私側の変数(実力,魅力など)で全てが決まることはない。
もし私側の変数がMAXだったら..などと思うことは,他人のジャッジに自分が関与できると思いすぎだ。
「行きたい」と思うのは私の勝手だが,それが叶うかどうかは他人に委ねられていることが多い。そして「選ばれない」という最大のファクターによって,選択肢も狭まる。選択肢があればまだいい方かもしれない。
いつまでも選ぶ側に立っている人は,「選ばれない」というファクターを通す前の段階にいる。選ばれないのではなくて,まだ選んでいないのだという立ち位置。
悩んでいる状態とはつまり,まだ選べるつもりでいるということだ。
私はその状態が嫌になって,サイコロを2回だけ振ってみた。
ひどく抽象的な言い方だが,全く違う働き方を天秤にかけ,「選ばれるかどうか」を見たいと思ったのだ。
私に決定権があるかのように悩むのではなく,「選ばれるかどうか」というファクターを通してみて,「いくら悩んだところでここからは私自身の問題ではない」という状態になりたかった。*1
その途中で,「進みたい」と思っていた道が遠回りだったことにも気づく。もしその道を通らずに進めるルートがあるなら,そっちを選んでしまいそうな意志の弱さも見せつけられる。
つまり,「選ばれるかどうか」のファクターを通した後に,初めて私側の課題が見えてきたのだ。
働き方に関して具体的に言えば,オフィスワークの内容にこだわりはないが,お茶に向き合えていないとどんな仕事にも耐えられない。逆に言うと,お茶に対してしたいことができていれば,それ以外の仕事はなんであれこなせる(修論公開中の自分みたいな)。
今抱えている猛烈な焦りは,お茶に対してできることを見失ったことから来ている。または,お茶に関係なくとも,自分の中にあるものが何も表面に出てこないこの状態からきている。もはや働き方にも直接関係ない。
これは「選ばれるかどうか」ではなく,自分側の問題だなと気づいたのだ。
実力が足らないこと,時期でないこと,本気でないことは,自然に叶わない流れになる。「叶わない」というジャッジは,私がしなくても他人がしてくれる。
大切なのは,私がしなくてはいけないジャッジを見極めること。
何が好きで,何にコミットしていたくて,何ができていたら満足なのかということ。何は絶対に許せないのかということ。ここに関しては,他人に判断させる余地はない。
漠然と悩むと,自分にしかできない判断と,他人が下す判断を混ぜて考えることになる。
私の判断が他人のジャッジを覆せることが少ないように,他人のジャッジは自分が下した判断(私側の変数)と関係ないかもしれない。悩んでどうにか影響させられるのは,自分の変数だけだ。
他人のジャッジに散々振り回されてきた。しかし今,本気でもう一度悩むべきは,お茶を通して何ができるかということ。
1つ矛盾として,「人の役に立ってこそ需要」であるなら,それこそ「選ばれるかどうか」を基準にしなくてはならないのだろうけど。
2018/08/09 最近のお茶になかったものは、道端のムクゲに目を留めて取ってくる時間だったかもしれない。朝には開いていた。
— 矢島 愛子|Teaist (@amnjrn) 2018年8月9日
今日お会いした方々のおかげで,なぜか躊躇っていた踏ん切りが一つついた。
なんでこの人生を選んだのか前向きに答えられるように,今すぐできることは全部する。 pic.twitter.com/WTJNPGHSSR
*1:働き方や受験だけでなく,ある人に告白したりするのも「選ばれるかどうか」のファクターを通す行為だ。片思いはつまり,自分が選ばれるかもしれない可能性のまま留まっておこうという動きでもある。