それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

桜の楽しみ方を知らないということ。

 
国が変われば,家の外で酔っ払うことが恥だと考える文化圏もある。桜の下でお酒を飲むのが理解できない(やりたいと思わない)と言ってた人がいて,その人も海外育ちだった。お酒が公然と飲めることに価値を感じるのは,日本人ぐらいということだろうか。
 
桜がお酒を飲む名目であったり,デートに誘う口実であったり,桜自体が目的ではないことは多々ある。ここでいう「桜自体が目的」とは,どんな状態だろうか。
「桜自体を目的にすること」を「桜を楽しむ/味わうこと」だと仮定しても,桜の楽しみ方が「桜の下でお酒を飲むこと」だったり「気になる人と桜を見ること」だったりする場合,議論は堂々巡りになる。
 

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発想の乏しさに起因するかもしれないが,私が桜に対してできることはとても少ない。
桜はいつか全部散る。見るだけでは足らず,それを惜しむかのように,お酒を飲む,誰かと過ごす,桜餅を食べる,写真を撮る,などなど。
 
いくら名残り惜しんでも,時間は止まらない。人間もいつか果てる。
確実に終わりゆくこの人生で,散りゆく桜に対してできる程度の楽しみ方しか,私は知らないのではないか。
桜を楽しむ手段が乏しいことはつまり,人生を楽しむ術を多く持たないということだ。
 
我々が桜の下でしていることは,自分が何を幸せだと感じているかを表している。お酒を飲む,写真を撮る,茶会をする,どれも結構だ。
それが,いつか必ず果てるこの人生に対して,自分ができることなのだろう。
 
「桜自体を楽しむ」方法を考えて,上に挙げたような間接的な手段ばかり浮かぶのは当然のことかもしれない。例えば人生自体がデフォルトで楽しかったら,「楽しもうとする必要もない」のだ。

楽しいのかよく分からないものを楽しもうと働きかけるとき,お酒を飲んだりデートしたりという具体的な行動を起こすことになるのだろう。
その方法を多く考えつく人がより幸せだと言えるかもしれないし,写真を撮る方が楽しい人もいれば,桜味のお菓子を食べる方が楽しい人もいる,というだけなのかもしれない。
 
桜自体を楽しむ方法は,塩漬けにして食べたりするぐらいしか今は浮かんでいない。腹が減っては食べて,買っては捨てて,生活とは小さく,できることは少なく思える。人生がデフォルトで楽しいのかもよく分からない。
 
でも,どうやら桜はデフォルトで綺麗だし,それを綺麗だと思う機能が,人間には実装されている。
それは一縷の救いだと思うのだ。
 
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ここまで別ページで書いておいてからブログの編集画面開いたら,今週のお題が「お花見」だった。

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私の楽しみ方です。