それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

4年記念日。

 


茶道はもう少し前から始めてたけど,2014年1月10日に突然家で点て始めてから,気付いたら今日まで点ててた。一人で点ててきた期間が,人に茶道を習っていた期間を,とうに追い越した。(もちろん習っていた期間と一人で点ててきた時間は重なっている)

毎年この日は,お茶を点てると走馬灯のように思い出が駆け巡るけど,今年は完全に頭がごちゃごちゃになっただけだった。嫌になって,茶碗に鼻から顎まで突っ込んで,吸う息も吐く息も抹茶になった。肺や胸にお茶が溜まっていく。

緑の景色と反比例して頭が真っ白になる頃,「すべてが,ここに在る」と言葉が浮かんだ。「ここ」というのはお茶そのもののことではなく,しかしもっと局地的な気がした。

きっと「ここ」が何か分かるのはもう少し先だけど。今がどんな状態でも,「ここ」から5年目を始めたい。

 

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朝から茶碗の中でスホスホして出勤が遅れた分,申し訳なさと締め切りにより,いつもより2時間ほど残業した。定時を超えた後の弊社は,心に余裕があるときは結構好きだ。(それでもあんま残らないけど笑)

最寄駅の一つ手前で降りて,和風っぽいダイナーでエゾ鹿とお酒。一人でお茶との記念日を祝う。お茶との記念日なんだから,他に人などいてはいけない。

 

店にもう一組,人生を説くおばさまが二人。私の文章もあんな感じなのだろうか。彼女らの半分を生きてきた私に響かない人生観は,誰の役に立つかは分からない。そんな人生観も,あのおばさん自身を救うのだろう。

「幸福感は,自分一人の合議制」と,最近思っている。自分が納得できたら,それがすなわち幸せということ。

 

同じ店に2回と行くことのない私が,また違う時間に来ようかななどと思いつき,歩いて帰りながら,相場より高い家賃もそこそこに,やっぱりこの辺りにもう少し住んでいたいなと思った。

ダイナーにいたおばさんのように,幸せについて延々考える。悩むためではなく,幸せでいるための考え事が好きなのだ。散々考えて,結局ジャッジするのは頭に降って湧いたような感覚だったりする。

結局のところ,一人で,複数人で,家や外で,お茶といる時間が心地いいかどうかが,幸福のメルクマール。

 

このごろ頭から離れない,まとまらない考えごと。

酔いが回った頭で一言にまとめるなら,「お茶のあるこの人生好きだな」でしょう。