それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

お茶づけ・英語づけの生活は,おそらくまだ続きます。

怒りに向き合うということ。

 

一ヶ月前からずっと,大きい喧嘩を何度もした。しかし未だにビデオ通話で話し合っている。

これまで別れ際といえば,トドメの長文だけ送って連絡を断ち切るのが私の常だった。前にも書いた通り,私は恋人や身内にだけサイコパス*1。私が見切ってしまえばもう決断は覆らないので,話す必要もない。 

じゃあなぜ今回だけは放棄せずに,珍しく未だに対話しているかというと,昔の記事の最後の段落が気にかかっているから。

何が無理でも「友達でいよう」っていうのは,嫌いにならずに関係を終えたことがない,私の遍歴を知ってのことだろう。 たとえ今後,彼がお茶より大事にならなかったとしても,将来別々に生きていくことになったとしても,彼を無下に扱ったりは絶対しないと決めた。 それは,付き合い続ける/続けないという選択より,もっと私に必要なことだった。

大事なものと「人」を比べるということ。 - それでもまだ奇跡の起こっていない人へ

 

別れる前後の忍耐を必要とする対話は,彼とうまく終わるためでなく,これまでにない対処をすることで自分が成長できるだろうと思ってしている。実際に,秒で一方的に別れた時よりも考えるところが多々あり,今まで全然気づかなかった気づきを得た。
自分が変わって,今後は恋人にキレない人生にしたい。だから,これ以上キレずにその人と話せるようになっておきたい。ひたすらその思いで対話している。

 

別れの原因としては,相手が遠距離に耐えられなかったことが1つ。浮気の打診みたいなことを相手が口走ったのだ(この時点で引いた)。就労ビザの発行の都合で私に会える日が延び,日本での就職後も引き続き遠距離なのは分かっていたが,お互いの休みが重ならないことも後で分かった。

私は遠距離に関して賢者なので耐えられるけど,さらにこのタイミングで彼の元カノ(の友人。本人ではない)が現れ,こんなことが重なるなら「あっもうこの人とは縁が無いな」と私が一瞬で判断してしまった。
距離や休みだけじゃない。私が院を卒業してから急に茶人として呼ばれることが多くなって,本業もバタバタしてた一方で,彼はパリで孤独と欲求不満を持て余していた。ここまで差が開いてしまうと,足枷でしかない。1年前の私ならそう一蹴していた。今も,そう思う。

 

一方で彼は,彼のお茶のスタイルや茶会を全然褒めない私に,不満を溜めていたらしい。私は思ってもない褒め言葉を言わないだけだ。

それなのに今回彼が「もっと優しい人がいい。彼女には褒めてもらいたい」とガキみたいなことを言い出した。私に褒めろと要求するお前は,何を為したんだよ?(と実際に本人に伝えた。)「(私といると)成長しろと常に求められてるみたいで嫌だ」という主張は了解できるが,それを拒む彼は要するに今後成長せず,ここで終わりだ。

 

私も何も為してないけど,私はたとえ誰に褒められなくても毎日のお茶を続けられてきた。ここでアルフレッド・スーザの言葉を思い出す。恋人だろうと親だろうと,私の人生の全てを見届けてくれる人なんてあり得ないのだから,誰を根拠にせずとも生きるべき。(スーザはそういう意味で言ってないけど)

踊れ,誰も見ていないかのように
愛せ,一度も傷ついたことがないかのように
歌え,誰も聴いていないかのように
働け,金が必要ではないかのように
生きよ,今日が最後の日であるかのように

 しかしここで,スーザの言葉の骨子に気づく。上の言葉には,以下の前口上がある。

私は長いこと,本当の人生はこれから始まるのだと思ってきた。しかし目の前にはいつも障害があり,やりかけの仕事,費やされるべき時間,返すべき借金,これらをまず片付けてから,人生が始まるのだと。


ようやく私は気づいた。これらの邪魔者こそが私の人生なのだと。
幸せに繋がる道などなく,幸せとは道のことなのだ。

これらの言葉の本当の意図とは異なる教訓に,このタイミングだから気づいた。
私がなぜ,かつては好きだった人を,目も当てられないほど嫌いになるのか。どうして誰のことも許せず,受け入れないのかについて。

 

 

私はずっと期待をしていた。

自分に最適な相手なら,私をこんなに苛立たせることはないだろう。
私が好きになった相手なら,このくらい越えてくれるだろう。ダメな部分も良くなるだろうと。

私はずっと勘違いをしていた。

相手の許せない部分がなくなってから,「本当の付き合い」が始まるのだと思っていた。
同時に,最初から私を苛立たせることもない相手がいいと思っていた。

 

合わないなと思う人と一緒にい続ける必要は無く,付き合ってから見えた欠点に目を瞑る必要も全くないと私は思う。文句は生きている間に本人に言おう,と常々思っている。ただし,相手が仮に最適な相手でも,自分とは違う人間である以上,苛つかないなんて無理だ。

むしろ苛ついてからが「本当の付き合い」だったとしたら,私はこれまでその全てを放棄してきた。遅かれ早かれ終わるものに,時間など割かなかった。

 

期待や勘違いをして浮ついてる間には愛は育たないと,私でも分かる。
もしかしたら,苦痛で投げ出したくて,幸せでもなんでもないこの時間が,一番物事を考えられるとしたらどうだろう。これが,ようやくお互いを見つめた時間だったとしたらどうだろう。
恋愛のふわふわ期とイライラ期(の初期)で全てを断ち切り続けてきた私が,その後相手を許したり受け入れたりできるようになる訳がないのだ。でも自分がキレなければ,終わった関係にさえ何かが見出せるのかもしれない。

 

 

昨夜も私の仕事後に話し合いをしていて,まだ話したそうだった彼に私が「Please be honest, what do you want? What do you want to do?(正直に言って。何が欲しいの?何がしたいの?)」と尋ねる。

彼は長い沈黙の後に「I want to be happy. I want to have you in my life. (幸せでいたい。俺の人生に君がいてほしい。)死ぬまでのどこかで,君と俺の幸せがまた重なってほしい。

でも君は恋人に求めるものが大きすぎて俺を許せなくて,恋人として付き合っていると,君を本当に失うと思った。そして君も,俺が何を言ってももう信用できないと思う。だから友達としてお互いを理解していくのが今は一番いい。You are still the most intelligent and interesting person I've ever met.(今でも君は,人生で出逢った中で最も頭が良くて興味深い人だ。)」

彼は私に「俺が君の言うことにカッとなるたびに,俺はこの人のことをまだ何も知らないんじゃないかと思ってきた。この人を理解したいと思ったのは初めてだ」などと言うので,また会話する約束だけはした。私こそ自分を理解しないといけないのだ。

正直,なんでこんな「弱い」相手と私はまだ向き合わなきゃいけないんだ,と今も思っている。しかし私も別の箇所が「弱い」。自分の欠陥に気づくのがもっと早ければ,向き合わなきゃと思い留まる相手はその人じゃなくて,昔の恋人だっただろう。

二人とも欠点が根深くて,お互いがより良い自分にならない限り,やり直すことはないと分かってる。抱えている業を越えない限り二度と人生の重ならない二人が,自身の欠陥と向き合うための時間が,今なのだと思う。お互いが出逢い直すためではない。

もうその人が恋人として云々という問題ではなく,恋人に対してだけサイコパスの私が,「他人を許して受け入れる人間」になれるかなれないかの問題なのだ。

 

散々言い合いをして,関係性が変わって,あぁ今からようやく,この人との「本当の付き合い」が始まるのだ。そう思った。

 

 

*1:身内だけと限定したけど,年長者だろうと自分より偉かろうと,誰にでもディスり芸を披露してる気がする